2018年8月24日金曜日

「9条に込められた魂」を継承するために

 9条の発案者と言われる幣原喜重郎元首相。幣原氏は死の十日ほど前に、戦争放棄条項を作った事情や、9条立案に至る思想・哲学を、側近であった平野三郎氏(元衆議院議員)に語りました。平野氏はその証言を記録し憲法調査会事務局に提出。「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」、あるいは「平野文書」とも呼ばれている証言録です。
 鉄筆文庫『日本国憲法 9条に込められた魂』には、その全文を収録してあります。今春、電子版の刊行に際して、平野氏の次女・平野冴子さんからご寄稿いただきました。一読して、強く平和を願う父娘の熱い気持ちが伝わってきます。これは電子版の巻頭に収めてありますが、今回、広く多くの方に読んでもらいたいと思い、ここに掲載します。「9条に込められた魂」を継承するためにも。


父・平野三郎が涙と共に語った平和憲法にまつわる秘密の話

 はじめまして。私は平野冴子といいます。昭和22年、1947年生まれの70歳です。まさにその1947年からはじまり、今も私たち日本人が日々お世話になっている「日本国憲法」についての、あるお話をしたいと思います。大事な、そしてちょっと面白いお話です。

 今から24年前に82歳で亡くなった私の父・平野三郎は、生前は政治の世界に身を置いていました。父は、第二次世界大戦中は中国に出征していました。共産党支持者だったためか早くから徴兵され、過酷な前線に派兵されたそうです。6年間ずっと戦地に居た後、敗戦翌年の昭和21年、1946年に帰国。その翌年に私が誕生したわけです。帰国後、父は政治家を志します。やがて岐阜県から衆議院議員として選出され、その後は岐阜県知事としても奉職しました。

 1964年、私は17歳になりました。多感でエネルギッシュな年頃です。私はビートルズを愛聴し、ラジオにはりついては歌い狂っての気楽な日々。そんな私に向かって、ある日、父が急に話しかけてきました。
「冴子ちゃん、あなた、シデハラさんという人を知っていますか?」
(我が家では、政治家の家庭にありがちな、他人行儀な会話が常でした)
「だれ? その人」
 と返すと父は、失望のまなざしで私の顔を見ています。そして、その夜に家族を集め、一世一代の大演説とでもいうような、父の告白が始まりました。

 それは、1947年頃に父が秘書として仕えていた、敗戦占領下中の総理大臣だった幣原喜重郎氏が亡くなる直前、父に語った、日本国憲法の9条にまつわる秘密の話でした。
憲法9条、即ち平和憲法、人類史上初の戦争放棄を掲げたそれは、アメリカの発案ではなく、無論押し付けられたものでもなく、幣原先生が自ら発案し、アメリカ側に提案したものであったのだと。
 父は滂沱の涙と共に語ります。
「幣原先生のお考え! 人類の未来、幸福、それらすべてを統合し、考えに考え抜き、マッカーサーを説得し、それを実現し、そしてその事をご自分の胸に長年秘め続け、亡くなる直前に僕に、僕ひとりに、打ち明けてくださったのだ!」
 声がもつれるほどに泣き、嗚咽する父を、「そんなこといきなり言われても……」と家族全員が呆気にとられて眺める様はまさに悲喜劇。それから父は、その話を毎夜のように語っては泣き、私たち家族はそのたび「またか」と聴き流してしまいました。

 しかし、平和憲法によってこの72年間、私たちは戦争のない国に住むことができたのだと、夫が、恋人が、我が子が、戦地に送られることもなく過ごせたのは憲法9条があったお陰なのだと、さすがに私も、30歳を過ぎる頃には理解できるようになりました。

 そして2017年の今、国会で「憲法改正」、しかも「9条改正」という話が出ています。何故でしょう? 現政権は何を考え、何を求めているのでしょうか。私は、それは「戦争への道」だと感じます。
 イヤです。ツライです。困ります。反対です。誰もが無事に、生命をまっとうして欲しい。どんなに難しくても、平和を守り抜く心を揺るがしてはならない。心の内で、そう何度も叫びます。
 70年前、そのために頑張り抜いたシデハラさん、そして家族にバカにされながらも、幣原先生の遺した平和憲法の尊さを毎夜のように切々と繰り返し語った父。二人の遺徳を讃えつつ、この拙文を〆たいと思います。

平野冴子(平野三郎・次女)