1 月島
あの頃は下町の路地裏をしょっちゅうほっつき歩いていた。
谷中のぼろアパート住まいだったので上野、浅草は縄張りのようなものだったし、隅田川をえんえん下って本所、両国、深川、木場あたりまで足をのばすこともしばしばだった。
父親がかつて実業団のマラソン選手でオリンピック寸前までいった人だったから、私も生まれつき足だけは強かった。
バイト暮らしで金がなかった。とにかくどこにでも歩いて行った。
あの日は、どういう風の吹き回しで月島に出かけたのか?
銀座で知り合いのカメラマンが個展をやっていて、それをぶらりとのぞいて、築地の場外で牛丼を食った。そのまま場外市場をグルグル回って写真を撮り、ふと勝鬨橋を渡ってみる気になった。
別にこれといった理由はなかったと思う。五月晴れの爽快な一日で、バイトは夜の仕事だったので昼間はいつもすることがなかった。
路地が好きでカメラ片手にあちこち巡っていたが、要はひまだったのだ。
市井の暮らしを記録し、庶民の哀感をちょっとばかりユニークに切り取ってみせればプロとして通用すると思い込んでいた。いま考えるとはなから写真の才能などなかったのだろう。
浅草の外国人専用のホテルで夜中から早朝までのフロント係をやっていた。
みすみと一緒になったあとも三年近くつづけた。私にすれば異例なほどに長持ちした仕事だった。
中退した大学が外国語専門で、あげく五年も通ったので、さすがに英語は身についていた。バブル経済にかげりが見え始めていたとはいえ、まだまだ日本は景気がよかった。英語を使ったバイトができれば一人口くらいは充分に養えた。ただ、私の場合は撮影機材やフィルム代でかなりの出費を強いられていたせいで暮らし自体はいつもかつかつだったが。
フィルムを費消すれば費消するだけ写真はうまくなると信じていた。
「写真は、批評性と審美眼の芸術だ」
と写真仲間に向かってうそぶいていた。
いまでこそ月島界隈にも高層マンションが建ち、対岸の豊洲も石播の工場が撤退してのち林立したマンションで一大団地となっているが、二十年余り前は高いビルといえば佃島に集中していた。リバーシティと呼ばれたその高層団地群は東京名所の一つに数えられ、休日は観光客が訪れたり隅田川や晴海の運河を行き交う遊覧船から人々がその威容を望んでため息をもらしたりしていた。
当時から月島といえばもんじゃ通りが有名で、清澄通りを二筋ばかり入った西仲通り商店街は夕暮れ時が近づけばたくさんの人々であふれたが、日中や、たとえ宵の口でもその西仲通りをさらに一筋、二筋外れると小さな一戸建てや長屋風のアパートがひしめき、一軒飲み屋の提灯が路傍にいきなりぶらさがっているようなひなびた街並みがつづいていた。
その日も私は、勝どき、月島と路地から路地へと伝い歩いた。
地下鉄の月島駅まで散策し、中古で買った愛用のライツミノルタCLで毎度のごとく何本もフィルムを使った。
写真を撮っているといつも時間を忘れた。そういう意味では本当に写真が好きだったのだろう。大学三年のときに名の通った写真の新人賞を受賞していっぱしの写真家気取りだったこともある。これで飯が食えるようになる、と半分くらい本気だった。
ゴールデンウィークも終わって日はすっかり長くなっていた。
みすみを見つけたのは何時くらいだったのだろう? 五時くらいだったか。それとももう少し早かっただろうか。
人生で何よりも重大な出来事だったというのに、それが起きた正確な時間も定かではない。重大なのかどうか、そのときは判然としないのだから当然といえば当然の話だが、それにしてもと思う。人間は生きている間、たえず時間に縛られているのに、肝腎な時間に限ってちっとも憶えていない。誕生。大切な人との出会い。自らの死。どれ一つとして我々はちゃんと記憶することができない。
例外があるとすれば別離くらいか。
最も悲痛な時間だけがしっかりと記憶に焼きつくというのも、いかにも人生の皮肉を感じさせる話ではある。
まだ存分に外は明るかった。
月島駅にたどり着いたところで踵を返し、佃のマンション群を背にして勝どきまでの道を戻った。往路は隅田川寄りの道を選んだので帰りは朝潮運河寄りの路地を歩くことにした。区民センターを通り過ぎてしばらくすると民家と民家のあいだに小さな居酒屋があった。両隣同様しもたや風の一軒家で暖簾はしまわれていたが、小さな立て看板と軒先に吊るされた提灯で店だと知れた。看板には「小料理すま」と書かれている。
類似の店は界隈にいっぱいあったが、そうはいっても、その店のさりげなさは際立っていた。
私が店の外観をカメラにおさめ、通りの反対側から当時でもすでにして珍しいような木造の物干し場へとレンズを向けたその瞬間、二階のガラス窓が開いて女が一人出てきた。
それがみすみだった。
すらっとした人だというのが第一印象だった。見上げる形だから背丈は正確につかめなかったが、それでもかなりの身長であるのは見て取れた。彼女は私には気づかないのか、しばし空を見上げ、それから洗濯物を干し始めた。ノースリーブの白いシャツに青い丈長のスカートがよく似合っていた。
あの日あの瞬間のみすみの姿を私ははっきりとはもう憶えていない。それから長々と彼女と暮らしたのだから、記憶は前後ごちゃまぜになり、各々の印象はみすみという人間まるごとの、いわば本質のようなものに吸い取られて曖昧模糊となる。
それでも、彼女の姿を一目見た瞬間にはっとしたのは鮮明に憶えている。
あのとき撮影したみすみの写真は大事に保管していた。ときどき取り出して眺めてもいた。数年後、ある事情があって他の写真やネガもろとも処分したが、振り返れば愚かなことをしでかしたと思う。まがりなりにも青春の相当な時間を写真に費やした。ものにはならなかったが、唯一財産のようなものが残ったとしたらみすみの姿を初めて焼き付けたあの一枚きりだったろうに。
私は洗濯物を干しているみすみを凝視した。細い顎の線。ノースリーブのシャツからのびたまっすぐで真っ白な腕。そして目鼻立ちのくっきりした面差し。
だが、それだけだったら声などかけなかっただろう。
私は彼女をじっと見つめているうちに次第に奇妙な息苦しさをおぼえ始めた。
ごく当たり前にタオルやハンカチ、ソックスなどをピンチハンガーに留めているだけなのに、そのたたずまいに何やら切羽詰まったものが見て取れた。ふつうは気づかないたぐいの小さな違和だろうが、私には彼女が身にまとう深い疲労と消耗の気配がはっきりと感じられた。
目が離せなくなって彼女を凝視しつづけた。人やものを凝視するのが子供の頃から得意だった。写真の新人賞を得た作品も、街中で人々が何か一点を見つめている姿を撮り溜めたもので、そもそもタイトルが『凝視』だったのだ。
人がいったい何に対して視線を集中させるのか。私はそれを子供の頃からよく知っていたし、人々の視線を観察するうちにさらに詳しくなった。
何よりも人が視線を鋭く一点に注ぐのは、ふいに大きな音が立ったときだ。眼の前だろうと背後であろうと、耳を突き刺す異音が聞こえた刹那、人は音の方角に向かって瞬時に視線を研ぎ澄ます。もう一つは、当然ながら別の視線だった。人間であろうが動物であろうが、そして絵や写真であろうが、人間は自分以外の視線に遭遇したとき、その視線の先にある瞳を凝視する。
「あのお、写真一枚撮ってもいいですか」
私の呼びかけにみすみは最初反応しなかった。二階にいる自分に言われたとは思わなかったようだ。
「あのお、すみません」
細い通りを渡って店の前まで来て、私は首の角度を上げてもう一度言った。
「あなたの写真を撮りたいんです」
ようやくみすみは私に瞳を向けた。一瞬、私たちの視線がぴたりと重なるのを感じた。カメラを振ってみせると、
「どうぞ。何枚でもいいですよ」
みすみは一度笑みを浮かべたが、しかし、あとは一切こちらを無視して洗濯物を干し終え、さっさと部屋の中に引っ込んでしまった。
愛想がいいのか悪いのか、よく分からない反応だった。
私は谷中のアパートに取って返して写真を焼くと、すぐに月島に戻った。その日はさいわい遅番で、ホテルには午後十一時までに入ればよかった。
暖簾がかかり提灯にはすでに明かりがともっていた。暖簾に記された店の文字は「須磨」だった。引き戸を引いて入り、
「こんにちは」
と言うと、
「あら、昼間はどうも」
みすみは笑顔になった。
カウンターだけの店で、先客が二人くらいいただろうか。
十時過ぎまで飲み、写真を入れた封筒を黙ってカウンターに置いて引きあげた。
もう一度店に行ったのはちょうど一週間経ってからだ。バイトが休みの日を選んで出かけた。
六時過ぎに着くとけっこうな混みぐあいだった。カウンターの隅に座ってビールを飲んだ。客はほとんどが近辺のおやじたちのようで、何かにつけてカウンターの中の彼女に話しかける。それにまたみすみは嬉しそうな表情で答え、たまに手の甲を口に寄せて楽しそうに笑う。年齢は私と同じくらいだろうと思った。だとすればずっと水商売で生きてきた人なのかもしれない。当時、私はまだ二十五になったばかりだった。「みっちゃん」と客たちから呼ばれていたので、美智子や美和子といった名前なのだろうと予想していた。
名前を知って、「どういう字なの?」と訊くと「ひらがなよ。父親は美しく澄むって付けたかったみたいだけど、中林っていう苗字だとひらがなの方が字画がいいんだって」と言った。それはこの晩、二人きりになってからのやりとりだ。
私は黙々と飲んだ。みすみは他の客の応対でいそがしそうで私には見向きもしないという態度だった。
ただ、ビール瓶が空になると見計らったように新しい瓶を出してくれた。そのうちビールではなく水割りのグラスを置くようになった。そうやって私が注文する前に酒が届き、つまみの皿も届いた。
最後の客が帰ったのは一時過ぎだったろうか。
みすみはさっさと暖簾をしまい込み、ふたたびカウンターの中へと戻った。
私が黙って水割りをすすっていると、
「やり方がずるいわ」
と言った。
だいぶ酔ってしまった私の顔を見て、
「男らしくないわ」
とつづけた。
「どう男らしくないんですか」
私はグラスを置いて彼女を見返す。
「男はもっと一本気じゃないと駄目よ」
みすみの言わんとするところは分からなくはなかった。ただ、バイトの休みを勘案すると今夜より先に顔を見せるのはむずかしかったのだ。黙って写真だけ置いて帰ったことを言っているのならば、それが私の作戦だから文句を言われてもどうしようもない。
「そうですか」
私は、財布から一枚きりの万札を抜くとカウンターに置いて立ち上がった。
「あら、どこ行くのよ」
みすみが慌てたような声を出した。
「帰るんですよ」
「なんで」
「気に入られなかったんならさっさと諦める。こう見えても一本気な男ですから」
私はそう言うと店を出た。タクシー代がなかったので、ここから谷中まで歩いて帰るしかなかった。終電の時間はとっくに過ぎている。
追い詰められた人間の瞳はよく知っているつもりだった。見誤ったとは思わなかったが、ずるいと言われてしまっては退散するほかはない。
引き戸の開く気配は感じなかったから五十メートルほどは歩いていたのだろうか。背後からサンダルの音が追いかけてきた。振り返ると目の前にみすみがいた。申し訳なさそうな、ちょっと困ったような顔をしていた。
「ずっと待っていたのに、帰るのはもっとずるいわ」
と言った。
その晩から店の二階で彼女と一緒に暮らすようになった。
2 みすみ
「須磨」という店名は、みすみが神戸市須磨区の出身だったことに由来していた。
同棲を始めて四か月目に入った一九九二年八月、私たちは結婚した。七月が誕生日のみすみは二十七歳、四月生まれの私は二十五歳。
大学一年のときに父が脳溢血であっけなく死んだので、私の身内は母親と三つ違いの姉だけだった。彼女たちとは子供時分から折り合いが悪かったから、電話で簡単に報告したきりでみすみに引き合わせることもしなかった。
母と姉は父が建てた小金井の家で一緒に暮らしていた。大学に入って自立すると、その実家にはまったく寄りつかなくなった。父の通夜、葬儀のときに顔を出したのが最後だった。
「式も何にもやらないから」
と伝えると、
「そうね。そういうことはお金がかかるだけだものね」
母は言った。
みすみがどういう人かも、何歳かも、どんな仕事をしているかも、母は何一つ訊いてこなかった。祝福の手紙一本、お祝いの品一つ母からも姉からも送られては来なかった。
みすみの両親には籍を入れたあとで報告に出向いた。
新幹線で新神戸まで行き、市営地下鉄、山陽電車と乗り継いで須磨寺の駅で降りた。
九月の残暑が厳しい日だった。
みすみの実家は須磨寺前商店街にある「中林酒店」という酒屋で、父親の泰蔵が店を守っていた。実母の光恵は彼女が小学校三年のときに亡くなり、中学に入ってすぐに義母の幸子がやって来た。
「あとから知ったんだけど、幸子さんは父のかつての恋人だった人で、一度も結婚しないで父のことを思いつづけていたんだって。その話を聞いて、私、心底うんざりしたの。ああ、この人たちはおかあさんが死ぬのをずっと待ってたんだって……」
そんな幸子と円満にやれるはずもなく、みすみは三年生の夏に高校を中退して東京に出てきたのだという。
三年後、二十一歳のときに最初の結婚をしている。相手は当時働いていた銀座のクラブの客だった。二十歳以上も歳の離れた男だったようだ。
「靴の輸入会社をやってて羽振りがよかったんだけど、その分金遣いも荒くて、あげく友達の保証人になったのが仇で会社がつぶれたの。その友達というのが六本木のバーのママさんで、彼女が経営する宝石店の保証人になったんだけど、雇われ店長の若い男がお店の商品を根こそぎ持ち逃げして、おまけにママさんまで失踪したのよ。私は二人は絶対グルだって思ってるけど、彼はそんなはずないって最後まで言い張ってた」
結婚生活は二年で破綻し、手切れ金代わりに譲り受けたのがこのお店なのだとみすみは言った。
「貰ったといったって土地も建物も全部借り物で、家賃がないってだけ。彼の方も億を超える借金が残ったし、二年足らずの結婚生活で、そのあいだもほとんど一緒に暮らしてなんていなかった。私は、とりあえず食べていける算段がつけばよかったのよ」
須磨寺の実家には一晩泊まっただけだった。
義父母は店のある一階で暮らしていて、二階は誰も使っていなかった。私たちはかつてみすみが使っていたという部屋に布団を敷いて横になった。階下の物音が消え、商店街の人通りも絶えて電車の音もしなくなると、須磨海岸の波の音が遠く薄く聞こえてきた。
「これ、海の音?」
私が呟くと、みすみは腕の中で無言で頷いた。
そうやってしばらく波の音を耳にしているうちに私はどうしてもみすみを抱きたくなってきた。寝巻の裾を割って手を差し入れようとすると、
「ここだけはイヤ!」
みすみは激しく拒んだ。
意外な反応に私は思わず手を引っ込めて、
「ごめん」
と謝った。だが、内心では釈然としなかった。それまでみすみが誘いを断ったことはなかったし、写真仲間の連中が我が家に泊まりに来た晩など、隣室で眠る彼らの存在を気にしながらの行為にみすみは普段以上の興奮を見せた。
みすみの身長は百七十弱で私とさほど変わらなかった。手足はすらりと長く痩せていた。乳房はこぶりだったが形よく、私はその乳房がとても気に入っていた。全体に体毛が薄く、肌がすべすべしていた。
そして何より、彼女の感度は抜群だった。
指でさんざんいき、舌で際限なくいき、挿入するとたびたび白目を剝いて意識を失くした。細切れに回数を稼ぐ女性は深く達するのは不得手だ、というのがそれまでの見解だったが、何度も何度も深くいきつづけられる人がいることをみすみに出会って初めて知った。
私は、みすみの身体に夢中になった。
須磨から戻ると谷中のアパートを引き払い、本格的に月島の家に転がり込んだ。
大江戸線がまだなかったので月島から浅草まで三十分くらいかかった。
「谷中にくらべるとやっぱり遠いね」
一週間ほどバイトに通ったあと何気なく言うと、
「だったらやめちゃえば」
あっさり言われて、私は思わず彼女の顔を見た。
「やめてどうするの?」
大学に入ってからは学費も生活費も全額バイトで捻出してきたので、私は金のために働くことに何の違和も抵抗もなかった。
「写真家になればいいじゃない」
みすみは当たり前の顔をしている。
「写真で食べていけるようになるのなんて、それこそ百人に一人なんだよ」
「だけどヒックンは写真家になりたいんでしょう」
「それはそうだけど」
「だったらなればいいじゃない。男の人は、これになりたいって強く思っていれば絶対になれるのよ。あとは時間がかかるかどうかだけ。早く夢がかなう人もいれば、想像以上に時間がかかる人もいる。だけど、脱落するのは諦めた人だけだよ」
私は、そんなに単純な話じゃないだろうと思った。
みすみのそうした前向きな忠告は、おおかた、ホステス時代に彼女目当てに通い詰めた“若手実業家”たちや、そのうちの一人でもあった前夫からの受け売りに違いなかった。
「じゃあ、女の人はそうじゃないの?」
だが、私はみすみの過去には触れないようにしていた。それは男相手の商売をしていた女性と一緒になった者の最低限のルールだと思っていた。
「そうじゃないって?」
みすみは自分の言葉に疑問を挟まれるとしばしば怪訝な顔になった。
「みすみさん、男の人は、って言ったでしょう、いま」
結婚してしばらくのあいだ、私は「みすみさん」と呼んでいた。
「そっか」
ようやく合点がいったような顔になり、
「女の人は男次第ってところもあるし、子供も産まなくちゃいけないから、そう簡単でもないのよ。それに男と同じように夢を追いかけてたらせっかく女に生まれた甲斐がないじゃない。惚れた男の夢に乗っかるのが女の醍醐味だと私は思ってるからね」
そういうところはいまどき珍しいくらい彼女は古風な女だった。
「だけど、僕が写真ばっかり撮ってたらお金は出ていくばかりだし、僕たちの生活が成り立たなくなるよ。二人とも根っからのビンボーなんだし」
「そんなの平気だよ。贅沢さえしなきゃヒックン一人養うくらいわけないよ」
そう言ってみすみは自分の胸をぽんと叩いてみせたのだった。
3 弔い酒
私の名前は山裏俊彦だから、付き合った女性たちには決まって「とし君」とか「としちゃん」と呼ばれた。友人たちは苗字の山裏をとって「やまちゃん」とか「うらちゃん」、「裏男」などと呼んでいた。
それを聞いたみすみは、
「じゃあ、ヒックンね」
と言った。
俊彦の彦をとってひこくん、ひこくんは言いにくいからヒックンというわけだった。
以来、私はずっとヒックンのままだった。
結婚してからも写真の方はまったく駄目だった。新人賞をくれたカメラ雑誌が年に一度、歴代受賞者たちの新作を掲載してくれるのだが、大学四年、五年と私の作品はまったく評判にならず、受賞作の『凝視』の評価が高かっただけに、むしろ多くの関係者の失望を誘った。ことに五年のときに発表した『花』は惨憺たる出来で、私自身もそのことは重々承知していた。『花』の惨敗を受けて、私は何とか卒業だけはと念じていた大学を思い切って辞めることにした。退路を断ち、背水の陣で臨むべしと自らを鼓舞したつもりだったが、翌年提出した『むくろ』という連作は、とうとう掲載さえしてもらえなかった。
『むくろ』の掲載不可のあとは、それまでぽつぽつあったカメラ雑誌の注文もぷっつり来なくなり、正直なところ、写真家になる道はほとんど閉ざされたに等しかった。
みすみと出会ったのはそんな時期で、「写真家になればいいじゃない」という言葉を素直に受け入れる余裕などこれっぽっちもなかった。
深夜のフロント係のバイトをやりながら、それでも写真は撮りつづけた。
みすみは商売上手で、あんな辺鄙な場所の小料理屋にもかかわらず月の売り上げはそこそこで、二人の収入を合わせれば独りの頃よりは多少ましな暮らしができるようになった。
私はみすみと結婚して本当によかった。
心を許せる相手と一つ屋根の下で暮らすという経験がまずもって初めてだった。「家族」や「家庭」、「肉親」といった耳にするだけで虫唾が走るような言葉も気にならなくなった。ドラマやCMで一家団欒のシーンを見てもチャンネルをかえることはなくなり、親子の情愛を描いた小説を読んでもさほど抵抗感をおぼえなくなった。
撮影に出かけない日は、ずっとみすみと一緒だった。二人で仕入れの買い物に行き、仕込みも手伝った。生来器用な方だったので、とりの下ごしらえや串打ちなどはあっという間にみすみよりうまくなった。
本当は撮影にもバイトにも出かけず、みすみと丸々一緒にいたかった。
どんな時間帯でも、店が始まる前であれば二階に誘って抱くことができた。身体がなじむにつれてみすみとの交情はしっとりと重く深いものに変わっていった。それは単に一過性の欲望を処理するというようなものではなくなり、そのようなまれなる感覚と出会えたのも結婚したおかげに違いなかった。
みすみは相変わらず、「いつでもバイトやめていいよ」と言っていた。私が撮影に身が入らない様子でもとやかく言うことは決してなかった。
結婚した年は、西武がヤクルトを破って三年連続の日本一となり、アメリカではビル・クリントンが現職のパパ・ブッシュを破って大統領職を手に入れた。みすみは西武ファンだったので、十月二十六日の日本シリーズ最終戦のチケットをなんとか手に入れて神宮球場に出かけた。この試合は西武のエース石井丈裕が完投し、みすみのお目当てだった潮崎哲也の投球を見ることはできなかったが、それでも大喜びだった。
「清原さんみたいないかにも野球選手っていう人はあんまり好きじゃないの。その点、潮崎君はちょっと違うもんね」
みすみはそう言っていた。
平穏な日々に小さなひびが入ったのは二年目の秋のことだった。
みすみが流産したのである。
一回目の結婚記念日から二か月ほど経った十月初旬の深夜、突然、猛烈な腹痛に襲われて、慌ててタクシーで近くの聖路加国際病院に駆け込んだ。
処置室に入ったみすみを部屋の外で待っていると、三十分以上も過ぎてから看護師が私を呼びに来た。診察室に招かれ、担当の医師から、
「残念でしたね」
と告げられた。妊娠自体を聞いていなかったのでただ驚くしかなかった。
「奥様も、今夜のことで初めてお知りになったようです。そういう場合、案外あとに引きずる方もいらっしゃいますので、どうか上手に励ましてあげてください」
中年の女医さんだったので、
「上手に励ますって、どうすればいいんでしょうか」
と訊いた。
「そうですね。『どうして気づかなかったの?』とか、『残念だったね』とかあまり言わないようにしてあげてください」
彼女は言った。
そのあと処置室のベッドに寝ているみすみのそばへ行った。眠っているようだったが、私が近づくと目を明けた。
「ごめんなさい」
目が合ったとたん、呟くように言った。
「みすみが謝るようなことじゃないだろ」
その頃にはさすがに「さん」は取れていた。
「どうして、私、赤ちゃんがお腹にいるって気づかなかったんだろう。知りもしないで平気でお客さんの返杯なんて受けちゃったりして……」
そこまで言うと、みすみの顔がいままで見たことのない形に歪んだ。
「赤ちゃんにどうやって謝ったらいいんだろう、私」
あとはただしくしく泣きつづけるだけだった。
「須磨」の客足がめっきり減ったのはこの流産のあとからだ。
私たちが結婚したちょうどその時期、東証の平均株価が六年ぶりに暴落し、一万四千円台になった。それから一年足らずのうちに景気はみるみる悪化していった。そんな環境も客足減少の要因だったのだろうが、一番はみすみがすっかりやる気をなくしたことだった。彼女はあの晩以降、大好きだった酒を一切口にしなくなったし、常連客相手に馬鹿を言うこともほとんどなくなった。
私といるときはいつも通りに見えたが、一度、店を覗いてびっくりしたことがあった。
彼女は燗酒をつけながら何度もため息をつき、漬物を切りながら手を止めて空間に視線を泳がせ、おでんの皿につゆを注ぎ足さずに客に出し、ときどき床にしゃがみ込んで胸を押さえたりした。
私は一週間ほどさらに彼女の様子を観察し、店のない日曜日に近所のうなぎ屋に連れて行ってじっくりと話をした。
「もう店はいいから、すこし休もうよ」
二人口になって以来、わずかながらたくわえもできていたし、私がもう少しバイトを増やせばそこそこやっていけそうな気がした。店をたたむとなると大家から退去を迫られてしまうが、しばらくの休業ならば文句もないはずだった。そのあいだに貯金を殖やし、どこか住む場所を見つければいい。私はもう写真はあきらめようとひそかに決意していた。
元手がかからず、フルタイムの仕事に就いた上でやれることがあった。それならばちゃんとした就職先を探すことだってできる。
その晩、初めてみすみに自分の考えを打ち明けた。
「小説に転向しようかと思ってるんだ」
むろん読むのは趣味の域を超えるくらいに好きだったが、それまで小説なるものを書いたことは一度もなかった。
店をいったん閉めることは案外あっさり了承したみすみが、この話には色をなした。
「ヒックン、夢をあきらめるの?」
「そうじゃない。写真家よりも小説家の方がいいような気がしてるんだ」
「どうして? そんな話いままで一度だって聞いたことないよ」
私はあれこれとみすみを説得した。
写真の新人賞を受賞したとき選考委員の一人だった著名作家が、
<この人の写真は理が勝ちすぎている。やがて作者は写真機を手離し、その空いた手に筆を握るような気がしてならない。>
と選評に記していた。むろん彼は私の受賞に反対票を投じたのだったが、しかし、さすがに痛いところをつかれた気がした。
写真が伸び悩むにしたがって、この選評は、だんだんに私の意識の中で大きくなっていった。そして、その頃には、自分の写真を否定した人物の一言にむしろすがりつきたいような気にさえなっていたのだ。
「ヒックンの言ってること、なんか違うと思う」
みすみは納得しなかった。
「だけど、家族だってそのうち増えるかもしれないし、小さな子供を抱えてお店なんて無理だし、僕のいまの稼ぎだけじゃとてもやっていけない。景気も悪くなってきてるし、就職先を見つけるんだったら今が最後のチャンスだ。それにサラリーマンをやりながらできるとしたら小説だと思う。写真をつづけていたらバイト以上のことはとても無理だよ」
何かを断念しようと決めれば幾らでももっともらしい理由が見つかるものだと、私は喋りながら痛感していた。実際、これまでも写真仲間の多くがそうやって正業に転じていった。
「私のせいってこと? だったら……」
みすみはそこで言葉を止めた。だったらの先につづく一言を想像して、心の底がひんやりするのを感じた。
「だったら」
私がそれをそのまま引き取った。
いま考えてみれば、あのとき私たちは別離の最大の危機にあったのだと思う。私が自らの転向の言い訳にみすみの流産まで利用してしまったら、みすみは私を切り捨てただろう。
私は私の人生をみすみに賭けている気でいたが、現実は一貫してその正反対だった。
「だったらこうしよう。とにかく年末年始はゆっくり身体を休めてほしい。その間に僕は頑張って小説を書いてみる。どこまで書けるか分からないけどやってみる。書き上がったらきみに読んでもらうよ。そして、これなら小説の方がいいってみすみが思ってくれたら、何も言わずに僕の言うことを聞いてくれ。店はやめて一刻も早くこの町を出るんだ」
その年はクリスマス・イブまでの営業ということにした。去年は暮れの三十日まで開けていたから六日も早い冬休み入りだったが、そうしようと勧めるとみすみはすぐに賛成した。もう限界が来ていることを彼女自身も内心では分かっていた。
イブは客はほとんど来なかった。最後の客が十一時過ぎに帰ったところで店を閉めた。夕方からは私もカウンターの中にいた。めずらしく着物に割烹着姿だったみすみが暖簾を下ろして戻ってくる。
「なんかその恰好、本当に小料理屋の若女将みたいだ。日本酒メーカーのモデルだったら即採用だね」
私は言った。
流産のあとみすみは少し瘠せたが、一段と美しくなっていた。
うなぎ屋で話をしたときに半ば無理やり酒を解禁させていた。むろん最初はかたくなに拒んだが、
「あの子の弔い酒だよ」
と言うとみすみは渋々ビールグラスを持ち上げた。
「献杯」
グラスをかかげると、なぜだか涙が出てきた。それまで一度だって泣いたことはなかったが、「あの子」と口に出したとたんにどうしようもなく悲しくなった。
みすみもビールをすすりながら泣いていた。
閉めた店のカウンターで二人で飲んだ。
明け方まで飲んで、カウンターの端に置いていた暖簾をみすみが畳んだ。
「また使うかもしれないから、大事にしまっておこうよ」
私が言うと、みすみは黙って首を振った。
4 S社の文学新人賞
クリスマスの晩から小説に取りかかった。
店のカウンターに中古で買ったワープロを据えて不眠不休で書きつづけた。
小説を書くのがこんなに面白いとは思ってもみなかった。
三が日も休まず、仮眠を取るときだけ二階に上がって、みすみに抱きしめてもらいながら短い眠りを眠った。
とりつかれたような私の姿に、みすみはやや啞然(あぜん)としていた。
「こんなヒックン、初めて見た」
と言うので、
「写真をやりはじめたときも、たぶんこんなだったと思うよ」
と言うと、
「ふーん」
みすみは分かったような分からないような顔をした。
十五日の成人の日に百枚ほどの作品を書き上げた。『快挙』というタイトルだった。さっそくプリントアウトしたものを渡すと、みすみはそれを持って外に出て行った。近所の喫茶店で読んでくるのだという。
三時間ほどして帰って来た。
「小説なんてほとんど読んだことないけど、これ、すごいと思う」
みすみは原稿の表紙をやさしく撫(な)でながらそう言ってくれた。
S社の文学新人賞の締切が一月末だったので、さっそくそれに応募した。
「須磨」を休業したことでみすみは次第に気力を取り戻していった。私は相変わらずフロント係のバイトをつづけながら空いた時間は執筆にあてた。みすみは節約上手だったので別のバイトとかけもちしなくても生活はどうにかやっていけた。
八月にみすみはふたたび妊娠した。今回は本人がすぐに気づいて、一緒に産婦人科に行った。
ちょうど五週目に入ったところだと告げられた。
客が来なくなって久しい一階の店で祝杯をあげた。といってもみすみはさっそくジュースだったが。
「つわりがおさまったら引っ越しをしよう」
店をやめてすでに八か月が過ぎ、大家からは「もし、再開しないのであれば別の人に店舗を貸したい」という注文が入っていた。そうなれば、出入り口が一つしかないこの家に住みつづけるのはとても無理だった。
「あわてることないよ」
みすみは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。
「あと一年くらいは平気で居座っていられるから」
この一軒家の持ち主は、みすみの別れた夫にひとかたならぬ借りがあるらしかった。
ただ、それはそれとして、そろそろきっちりけじめをつけたいと私は思っていた。
「赤ちゃんは新しい家で育てたいんだ」
そう言うと、
「そうね」
みすみも同意した。
九月に入ってすぐ、S社の佐伯(さえき)さんという人から連絡が来た。投稿していた小説が新人賞の最終候補に残ったという知らせだった。にわかには信じられなかった。S社の新人賞は毎年千数百名が応募し、最終に残るのは数編だった。翌日、神楽坂(かぐらざか)にあるS社に佐伯さんを訪ねた。佐伯さんは四十がらみの、いかにも文芸誌の編集者という雰囲気の持ち主だった。受け取った名刺には<デスク 佐伯憲一>とあった。案の定、今回最終選考に残ったのは五本で、「編集部でも、この『快挙』はとりわけ評価が高かったんですよ。このまま受賞という本当の快挙まで突っ走ってくれるといいですね」と佐伯さんは言った。いろいろと話していると、『快挙』を誰よりも強く推してくれたのは佐伯さん本人のようだった。
何か所か改善すべき点や文章表現のミスを指摘され、
「手を入れたものを来週までに持って来てください。できればフロッピイだとありがたい。それをゲラにして、もう一度校正してもらって、そのゲラを候補作として選考委員の先生たちに回します」
と言われた。
一時間足らずの面談だったが、帰り道、私は夢見心地でどこをどう歩いて神楽坂の駅までたどり着いたのかまったくおぼえていなかった。
翌週フロッピイを持参し、週末には校閲済みのゲラが送られてきた。
活字になった自分の小説をみすみと二人で飽かず眺めた。眺め終わるとみすみは神棚の上に必ずそれを戻すのだった。
「ヒックン、やっと運が向いてきたね」
彼女は何度もそう言った。
選考会は十月十三日木曜日午後四時からと決まっていた。
当日は佃島の住吉さんにお参りし、勝鬨橋を渡って築地まで行った。みすみのつわりは食べづわりで、それほど重くなかった。ふんぱつして場外の寿司(すし)屋で寿司を食べ、波除(なみよけ)神社にも詣(もう)でた。するとみすみが、「せっかくだから三越の屋上の出世地蔵尊にもお参りしようよ」と言い出し、結局、銀座三越に寄ってから家に戻った。
四時からは電話の前に陣取って、お互いほとんど口もきかずに待った。
電話が鳴ったのは六時ちょうど。落選だった。
「最後の二本まで残ったのですが、あと一歩で受賞には至りませんでした。詳しい選考経過をお伝えしたいので、今週中に一度お目にかからせて下さい。お宅の近くまで行かせてもらいますから」
がっかりはしたが、佐伯さんの落ち着いた低い声を聴いているうちに幾らか気持ちは立ち直ってきた。隣のみすみは私の受け答えで落選を知り、黙って天を仰いでいた。
受賞したのはニューヨーク在住の私と同世代の女性で、彼女はその受賞作で芥川賞候補となり、次の作品であっという間に芥川賞作家となった。
その日の夜のニュースで大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したと知った。
「こういう人もいるんだよなあ……」
大江作品はほとんど未読だったが、遅い夕食をとりながらテレビに向かって呟くと、
「ヒックンだって、きっとそうなるよ」
みすみは私の目をしっかりと見つめて言った。
「今日はごめんな。期待にこたえられなくて」
私はようやく詫(わ)びを口にした。
誰よりも落胆しているのは自分ではなくて目の前のみすみなのだと、そのとき初めて気づいたのだ。
年も押し詰まった十二月の二十八日、みすみは流産した。
昼ごはんを食べ終えて私は一階のカウンターで小説を書いていた。佐伯さんから、「新人賞のことはとりあえず忘れてもう少し長いもので勝負してみませんか。中林さんの犀利(さいり)で緻密(ちみつ)な文章は長いものの方がより力を発揮できるように思うんです」と勧められ、二百枚程度のものを書くことにしたのだ。
微々たる活動だったとはいえ、一度は本名の山裏俊彦で写真家としてデビューしていたので、私は作家として出直すために中林俊彦という筆名を使っていた。「中林」はみすみの旧姓である。
「ヒックン来てーー」
というものすごい絶叫で、何が起きたのか咄嗟(とっさ)に想像がついた。
二階のトイレのドアが開いて、みすみが洋式便器の前にうずくまっていた。股間(こかん)を両手で押さえ、その手が真っ赤に濡(ぬ)れていた。
救急車を呼び、聖路加国際病院に搬送した。みすみは半狂乱状態だったが、病院に着く直前に意識を失った。
「どうしたんですか。気を失ったじゃないですか」
動転した私が救急隊員に詰め寄ると、
「出血性のショックです。一刻も早く輸血しなくては」
彼らも血相を変えていた。
みすみはそのまま処置室に運ばれ、私は廊下で待たされた。何人もの看護師と医師が処置室に飛び込んでいった。
あのときの恐怖はいまも忘れられない。
みすみが死んでしまう。
そう思うと喉(のど)が詰まって呼吸ができなくなった。こめかみから後頭部にかけて割れるような痛みに襲われた。
通りがかった看護師を呼び止め、処置室の中がどうなっているのか、女房の容態はどうなのか教えてくれと迫った。
「何も教えてくれないなら、僕が入って、この目で確かめます」
私の剣幕におそれをなしたのか、その若い看護師は「すぐに聞いてきます」と言って看護師詰所へ走って行った。五分ほどして白衣を着た中年の医師が処置室から出てきた。
「ご心配のことと思います。ご説明が遅くなってしまい申し訳ありません」
彼は丁寧な言葉づかいで状況を話し始めた。
「何とか止血できましたので、奥様は大丈夫だと思います。ただ、おなかの赤ちゃんは残念ながら……」
もう五か月に入っていた。ここの産婦人科で定期的に診てもらい、胎児の姿も、拍動の様子も、かすかに動く手足もはっきりと見ていた。みすみは医師がくれたエコーの画像を毎日繰り返し眺めながら暮らしていた。
「どうしてこんなことになるんですか。かみさんは何にもむちゃなことはしてなくて、去年一度流産を経験しているんで今回は本当に用心して生活してたんです。今日だって、突然出血して、思い当たることなんて何もありはしません」
私が憤懣(ふんまん)をぶつけると、
「詳しくは産科の担当医の方からもお話があると思いますが、思い当たる原因がないにもかかわらず奥様のような重篤(じゅうとく)な流産を繰り返す方もごくごくたまにいらっしゃるのです」
医師は重々しい口調でそう言うと、また処置室の中へと戻っていった。
みすみは一週間の入院を余儀なくされた。
私は年末年始を独りで過ごした。誰かと過ごす正月など昨年、一昨年の二回きり経験しただけだったが、一度その味をおぼえてしまうと、それ以前の一人ぼっちの正月をどうやって過ごしていたのかまるきり思い出せなかった。
昨年のように、年末年始で原稿を書き上げ、みすみへのせめてもの励ましにしようと夜はワープロの前に座りつづけたが、いかんせん小説は進まなかった。
早朝から病院に向かい、消灯時間直前まで一緒に過ごした。事情が事情だっただけに産婦人科の看護師たちも病室に張りつく私を咎(とが)めたりはしなかった。
みすみの様子を見れば、受けた打撃の大きさは彼女たちにも充分に察せられたのだ。
退院したのは一九九五年(平成七年)一月四日のことだった。
みすみの入院中に私は産科の担当医からじっくり話を聞いた。彼によれば、みすみの子宮は妊娠・出産には甚だしく適していないらしかった。
「正直なところ、奥様のような方の場合、妊娠が成立すること自体が稀(まれ)なんです。いままで二度も着床し、今回のように数か月間、赤ちゃんが子宮で成長したというのは非常にレアケースだと思います」
「そのことは妻も理解しているんでしょうか?」
みすみからは一度も聞いたことがなかったので、私は不安になって問い返した。
「もちろんです」
医師はしっかりと頷いた。
退院したあとも、みすみの気力は戻らなかった。ずっと床に伏せるようなことはなかったが、いつもぼーっとしていたし、不眠がひどかった。軽度というにはやや重い鬱(うつ)症状だった。聖路加の心療内科に連れて行き、抗鬱剤や睡眠薬を処方してもらった。
私も学生時代、父から受けた暴力のフラッシュバックで不安状態に陥ることがしばしばだったので、症状がひどいときは薬を服用していた。
ちゃんと眠れるようになれば人間は回復する。睡眠障害はあらゆる精神不安の共通の入り口だと私は思っている。
あてにしていた新人賞は貰えず、すぐ金になるような原稿依頼も当然なかった。
いまとなっては店を再開する手もあるにはあったが、みすみの状態を見る限り、我が子を二度も失くした家に住みつづける方がマイナスのように思われた。
行き詰まったときはとにかく気分一新しかない。最も手っ取り早い方法は新しい住まいを見つけることだ。
生計のめどは立たないながらも、私は、正月明けから部屋探しを始めた。どうせならアルバイト先のホテルがある浅草近辺に帰りたかった。まずは上野界隈(かいわい)に的を絞って不動産屋を回った。みすみも気分のいいときは一緒についてくるようになった。
一月十六日月曜日は、成人の日の振り替え休日だった。
この日も、半日費やして何か所か物件を回ったが、なかなか条件にかなうものは見つからなかった。何より家賃が想像以上に高かった。月額七万円くらいで、と私たちとしては相当に思い切ったつもりだったが、その家賃で、二間振り分け、風呂(ふろ)トイレ別という希望条件の物件は少なかった。仮に間取り図で気に入って現地に出向いてみても、日当たりがほとんどなかったり、幹線道路や線路沿いだったりと、およそ長く住めそうな部屋ではなかった。
二人ともすっかり疲れ果てて上野駅のそばの寿司屋に入った。
ひどく寒い日で、みすみの身体も私の身体も冷え切っていた。私はほんとうはあったかい鍋(なべ)か何かが食べたかったが、ふだんから食欲のないみすみに食べさせるなら好物の寿司が一番だった。
時刻はもう八時近かったような気がする。
入ってみると店は満席に近く、私たちはカウンターの隅に案内された。近づいてきた職人が、「お飲み物は何にします?」と聞いてくる。「どうする?」とみすみに言うと「お茶でいい」というので、「お茶二つください」と告げた。すると職人は明らかに不愉快そうな表情になって、「はーい、×番さん、あがり二丁だってさあ」と大声で言った。
店内は行楽帰りの人たちでいっぱいで、さほどの高級店にも見えなかった。
ただ、ネタを書いた木札には値段が入っていない。まさかお好みで食べるわけにもいかず、私はさきほどの職人に「セットメニューありますか」と訊(たず)ねた。
すると彼は何も言わずにメニュー表を投げるように寄越したのだった。
特上が五〇〇〇円。上が三五〇〇円。並でも二五〇〇円だった。バブルの名残はいまだこうした場末の店に染(し)みついていた。
「特上にしよう」
私が言うと、
「何言ってるのよ。こんな店、そんな高いの頼んだってどうせろくなもの出てこないよ」
みすみがたしなめるように言う。
「いいよ。たまには贅沢しよう」
「あのね、私たちそんな身分じゃないでしょう」
並を注文すると、職人はまたこれみよがしに「×番さん、並寿司二丁だってさあ」と言った。
出てきた寿司は案の定、ネタも古くてうまくもなかった。そもそも連休中に寿司屋に入ったのが失敗だったと私は思った。
「やっぱり並でよかったね」
それでもみすみは寿司を頬張りながら言った。
私は気持ちがぐらぐらしてくるのを抑えられなかった。
「よかったもなにも、並しか食えないんだろ、俺たちは」
「そういうんじゃなくて」
「もういいよ。黙って食えよ」
「どうしたの」
「どうもしてないよ」
「だって、ヒックン怒ってるじゃない」
それからはひそひそ声で激しく言い合った。みすみも私も声を荒らげたり、ヒステリックになったりするタイプではなかったが、それはいわば性格の外見で、内側には強い怒りを喚起する火種をいつもかかえていた。
「ヒックン、もう私と別れたいんでしょう。子供も満足に産めないような女はイヤなんでしょう」
みすみが心にもないことを言った。だが、それが私の怒りに火をつけたのだった。一体なんてことを言うんだ、と思った。なんてひどいことを言うんだ、と。
その瞬間、私はみすみと一緒になって初めて父に殴られていた頃の記憶をよみがえらせた。
脚の故障で現役を引退した父は、酔うと「俺は君原や宇佐美にだって負けなかったんだ」と実業団時代の自慢話をえんえん垂れ流し、そのうち決まって長男の私を呼びつけて説教を始めた。私は幼い頃から虚弱で、ことに気管支や肺が弱く、小学校を終えるまでは喘息(ぜんそく)でろくに走ることもかなわなかった。そういう息子が父にはどうしても許せなかった。
子供心にも理不尽としか思えないような説教の種がつきると、
「お前は一体誰の子なんだよ」
と私の頭髪や顎(あご)をひっつかみ、赤黒い顔を近づけて狂気をはらんだ瞳(ひとみ)で見据えてくる。その頃にはもうべろんべろんだった。
学校の成績だけは常にトップクラスの私が、勉強の苦手だった父にはとても自分の息子とは思えなかったのだろう。
やがて上半身を裸にさせた私を直立不動の姿勢で立たせて、
「歯を食いしばれ」
と平手打ちを見舞った。
頰を張られながら、私はじっと父の瞳を凝視していた。そうやって食い入るように相手の目を見つめている限り、決して自分を失わずにすんだからだ。
私が倒れ込むと、それが合図だった。父の“教育的指導”はただの残忍な暴力に一変し、その卑劣な本性がむき出しになった。
小学生の頃はただ泣き叫びながら這(は)いずり回って逃げるしかなかった。
母に取りすがっても嗚咽(おえつ)するばかりで何もしてくれない。私を連れて家を出ることさえ彼女は一度もしなかった。三つ違いの姉は二階の部屋に引っ込んで出てもこなかった。
彼女はそういう父に迎合することで、ひとかたならぬ愛情を勝ち得ていたのだ。
家族とははなからそういうものだと私はずっと思ってきた。
中学になると家に寄りつかなくなった。友達の家を泊まり歩き、泊まる場所がないときは電話ボックスで夜を明かした。家の近所の交番のおまわりさんと親しくなって、深夜まで交番で勉強させてもらうこともよくあった。
みすみのまなざしは、父が私を殴っているときのまなざしとよく似ていた。
人間は卑屈になったとき他人を心底傷つけることができる。なぜなら、彼らはそうやって自分自身を罰しているつもりだからだ。
私はもうみすみの言葉にも態度にも取り合わなかった。何も言い返さなかったし、大声を上げることもなかった。
いかなる人間との関わりも、諦(あきら)めてしまえば何も苦しくはない。ひたすら耐えつづけ、目の前から彼や彼女がいなくなるのをただじっと待っていればいい。
私は黙ったまま残りの寿司を食い、
「もう行こう」
みすみを促して席を立った。
そんな私の態度に異常を察したのか、みすみもさすがに黙り込んでしまった。
5 須磨
翌朝、けたたましい電話の音で目を開けた。
みすみは寝室で寝ていたが、私は電話機の置いてある茶の間に布団を持ち込んで眠っていた。前の晩、上野から戻ってきた私たちは、夫婦になって初めて別々に寝たのだった。
鳴りつづける電話に、時刻も確かめずに受話器を取った。
「もしもし、もしもし」
聞き覚えのある声のような気もしたが、よくは分からない。
「山裏ですが……」
寝ぼけ声で返すと、
「あ、おにいちゃん。私です、雪江です」
声が切迫していた。
「ああ」
ようやく合点がいった。みすみの従妹の雪江だった。みすみとは姉妹同然の間柄で、結婚直後に初めて会い、それからはときどきうちにも遊びに来ていた。彼女の住まいは江東区の森下で、月島とはわりと近かった。
いつの間にか私は彼女から「おにいちゃん」と呼ばれるようになっていた。
「ねえ、おにいちゃん、ちゃんと目を覚まして。神戸が大地震なの。たいへんなことになってるの。すぐにテレビをつけて」
「何だって!」
私は一瞬で覚醒した。慌ててリモコンを取ってスイッチを押した。
ブラウン管が明るくなると、信じられないような光景が映し出されていた。ヘリコプターからの空撮映像だった。都会の街並みが見渡す限りもうもうとした煙に包まれ、ところどころから巨大な黒煙が立ち上り、そして高速道路がきれいに横倒しになっていた。
一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。淡路島直下を震源とするマグニチュード7・3の大地震が神戸を直撃した。最大震度7。古いビルや木造家屋が見る間になぎ倒されるような激震だった。
テレビ画面の時刻表示はたしか八時三十二分だったと記憶している。
私は大声を上げて隣室で眠っているみすみを叩き起こした。
須磨寺の泰蔵や幸子の無事が確認できたのは二日後の十九日の夜だった。仮設電話を使って向こうが連絡を寄越してくれた。当時はまだ携帯電話を持っている人は多くなかった。携帯が爆発的に普及し始めるのは阪神・淡路大震災のあとからだ。
中林酒店は倒壊を免れていた。五年ほど前に鉄骨の店舗に建て直したのがさいわいしたようだった。だが、須磨寺前商店街の店舗は八割近くが全壊、半壊して壊滅的な打撃を受けていた。中林酒店も出入り口のガラス戸は砕け散り、棚はすべて落ち、並べていた酒類の瓶はことごとく割れたという。店舗はめちゃくちゃな状態だった。
「奥の倉庫の品も全部やられてしもうたわ」
電話口の義父は想像したよりも落ち着いていたが、それでも悲痛な声でそう言った。
十七日は、会社を休んだ雪江も昼前には月島に来て、三人で深夜までテレビを観た。
みすみも雪江も家族の安否がはっきりしない状況だったので、次々にテレビに映し出される衝撃的な光景に、「三宮でさえこんなんじゃあ、うちのあたりはどないなってるか分からへんやん」などと顔を見合わせ涙声になっていた。
北区に住んでいる雪江の両親の無事はその晩のうちに、兵庫区の病院に勤務する妹の無事が次の日に判明し、さらに翌日、ようやく泰蔵たちから電話が来たのだった。
一週間が経った一月二十三日の月曜日、私とみすみは新幹線と臨時運行バスを乗り継いで大渋滞の中を神戸へと向かった。
すでに幹線道路のがれきは撤去され火事も鎮火していたが、道路沿いのビルや家屋の被害の凄まじさは、実見するのとテレビで観るのとでは大違いだった。
まさに戦慄すべき風景が眼前に広がっていた。
まだ日があるうちになんとか須磨寺前商店街にたどり着いた。
中林酒店は一階の店舗は爆弾でも投げ込まれたように破壊しつくされていた。散乱していたガラス片は片づいていたが、あとはほとんど手つかずの状態だった。その無残な有様にみすみも私も声が出なかった。
それでも二階で何とか寝泊りできる中林酒店は、商店街の中でも被害が最も軽微な店舗だった。義父が電話で語っていた通り、周辺の店の大半が完全に潰れていた。
電気もガスも水道も復旧していなかったが、私たちは実家に泊まり込んで、店の掃除や商店街各所の瓦礫撤去作業に従事した。
地震の衝撃から義父も義母も立ち直れずにいた。崩れなかったとはいえ彼らが眠っていた一階の寝室も壮絶な揺れに見舞われていた。背中から突き上げてくるような揺れで、義父も義母もあっという間にベッドから弾き飛ばされたのだという。ただ、そのおかげで、倒れてきた箪笥の直撃をかわすことができたのだった。
「あれで、よくいのちがあったもんや」
という二人の述懐は決して誇張ではなかった。実際、商店街でも家もろともにつぶされて亡くなった人が何人か出ていた。
余震が来るたびに義父母の顔はゆがみ、目は血走った。
「あんなおとうちゃんたち、とてもほっとけへんわ」
近所の人たちと日々、たくさんの会話を交わすうちにみすみはすっかり関西弁に戻っていた。彼女は見舞いに来た各清酒メーカーや酒販社の営業マンと毎日応対し、店舗の修繕、在庫ゼロになってしまった商品の仕入れ、融資の算段、負債処理の方法などについて話し合っていた。
父親の泰蔵は娘の隣で腕組みしながら話を聞いていたが、その耳には何も入ってはいないようだった。彼は娘に頼り切っていた。
義母との関係も気まずいものにはとても見えなかった。
みすみが家を出て十年以上の歳月が経過しているのだから、かつてのわだかまりなど自然消滅したのかもしれないが、それにしても二人は仲が良かった。
そもそも幸子は、私から見てもいい人過ぎるくらいにいい人だった。
一週間が過ぎたところでいったん東京に戻った。
店の再建も泰蔵たちの生活の安定もまだまだ前途遼遠に違いなかったが、私たち自身の生活もあった。浅草のホテルの仕事だって、幾らバイトとはいえそうそう長く休めるわけではなかった。当時の収入源はそのバイト一つきりだった。
神戸との往復だけでも物入りだったし、それなりの金額をお見舞いとして義父母に包んだから貯金もかなり減ってしまった。月島の家を出るための資金でさえ何とかぎりぎりという状況になっていた。さらにその先の見通しとなるとまったくつかなかった。
ただ、震災が起きたことでみすみの精神状態は立ち直った。
いつまでもくよくよしている場合ではないと悟ったのだろう。またとないショック療法ではあったと思う。
その年の五月、私たちは須磨のみすみの実家に帰ることに決めた。
泰蔵たちから懇請されたのが一番の理由だが、みすみ自身も実家を放っておけない様子だった。一月以降たびたび帰省し、店の営業再開の陣頭指揮を執っていた。六月中の再開が決まり、五月連休明けには店舗の耐震補強と復旧工事もおおかた終えて二階のリフォームも済んでいた。いつでも須磨に戻って生活ができるだけの準備は整ったのだった。
最初は、のびのびになっている二百枚の原稿が仕上がるまで私は東京に残るつもりだった。それどころか、その作品がうまくいけば、須磨で店の再開を取り仕切っているみすみを頃合いを見て東京に呼び戻そうと考えていた。
「おとうちゃんたちが落ち着いたら、私はそれでもいいよ」
とみすみも言っていた。
だが、三月になっても四月になっても原稿は遅々として進まなかった。みすみの帰省費用などもたたって貯金は底をつきはじめた。そこへ、私が働いていた浅草の外国人専用ホテルの廃業が追い打ちをかけた。ホテルの経営自体はうまくいっていたのだが、手広く事業をやっていたオーナー会社がバブル崩壊で倒産し、債権者たちが資産の整理を図ったためだった。
万事休すだった。
S社の佐伯さんに相談に行くと、「中林さん、小説はどこに住んでいたって書けますよ」とあっさり言われた。
「中林さんはまだ若い。焦らずじっくりやりましょう。いま神戸に行かれるのは決してマイナスじゃないと私は思います。作家としてはまたとない経験なのかもしれない。中林さんがどこに住んでいたって、私はいつでもあなたの原稿を待っていますよ」
佐伯さんの言葉が背中を押してくれた。帰り際、佐伯さんは、「まだ内緒の話ですが六月からは私が編集長になります。だから、もう心配はいりませんよ」と耳打ちしてくれたのだった。
引っ越しの日は雨だった。
土砂降りではなかった。静かな小糠雨だった。
さして量のない家財道具を積んだ引越屋のトラックを見送った後、二人で部屋の掃除をした。
三年前の同じ時期に、この場所でみすみと出会った。あの日は五月晴れの素晴らしい空が広がっていた。ここで過ごした三年という月日が長かったのか短かったのか、私には分からなかった。しかし、その三年が私の人生にとって何よりも大切でかけがえのない歳月であったのは間違いないと思った。
私は初めて人の愛に触れ、そして、その人を愛することができた。
みすみは一階のカウンターをていねいに磨き上げ、二階の神棚のちりをきれいに拭き取った。
二人目を妊娠しているときは毎朝毎晩、みすみはその神棚に掌を合わせていた。『快挙』が新人賞の候補になったときは、届いたゲラを供えて、やはり毎朝毎晩おがんでいた。
この家で二人の子供を失った。そのせいでみすみは心に深い傷を負った。
そう考えると決してゲンのいい家ではなかったはずだが、こうして出ていく段になってみるとちっともそうは思えなかった。
人生には善きことも、悪しきこともある。私たちはそうしたもろもろと常に折り合いをつけながら生きていくしかない。そんな気がした。
みすみとこうやって一緒に暮らし、一緒に引っ越していける。ただそれだけで充分ではないか……。
掃除が一通り終わると、みすみが押入れの奥から風呂敷包みを取り出してきた。
「何、それ?」
みすみはにっこり笑って包みを開いてみせた。
あの「須磨」の暖簾だった。私はてっきり処分したものだとばかり思っていた。
「とっておいたんだ」
と言うと、
「ヒックンが大事にしまっておこうよって言ったじゃない」
みすみは呟くように言い、
「ヒックンはよっぽど須磨に縁があるんだね」
ともう一度にっこりして私を見たのだった。
6 ラジオドラマ
文字通り、廃墟の中での再出発だったが、十数年ぶりに故郷に戻ったみすみは俄然張り切っていた。彼女のいきいきとした姿を見るにつけ、私は東京を離れて正解だったと思わずにはいられなかった。
手がけていた小説は須磨に移ってもなかなか進まなかった。半年以上も呻吟したあげくにこのありさまとなれば、テーマ自体に問題があるのかもしれない―そんなふうに悩み始めるとなおさら筆は重くなった。須磨に転居して一か月ほど経った頃、大阪在住の作家たちへの挨拶回りのために佐伯さんが関西入りし、わざわざ神戸まで足をのばしてくれた。
三宮で待ち合わせて近くの喫茶店で話した。
震災後初めて神戸を訪れた佐伯さんは、三宮駅周辺の変わり果てた様子に圧倒されたようだった。
「こういう言い方は何ですが、中林さん、これは書けますよ」
開口一番、やや興奮気味に言った。
「そうでしょうか」
口を濁したが、正直なところその言葉にがっかりしていた。数千人の命を奪ったこれほどの惨事がそうやすやすと小説化できるはずもなかった。また、小説化する必要があるのかどうかも私には判断がつきかねた。
佐伯さんは編集長になって、やはり嬉しそうだった。彼には似つかわしくない気負いを感じて、逆に心配になったくらいだった。
「とにかく、しばらくはこの神戸の街をじっくり観察してごらんなさい。きっと新しいテーマが浮かんでくるはずです。何度も言うようですが、焦っては駄目ですよ」
そう言い残して、一時間ほどで腰を上げると、佐伯さんはそそくさと東京へ帰って行った。
震災当日から不通となっていた山陽新幹線はすでに全線復旧していた。
中林酒店の二階での生活は思ったよりも快適だった。
まずもって生計の心配をしなくていいのがありがたかった。もちろん別世帯である限りは部屋代も光熱費も相応に負担せねばならないのだが、みすみが店を切り盛りしているのもあって、給料がわりに当分甘えさせて貰っても気兼ねする必要がなかった。
貯金はすでに底をつきつつあったが、家賃がなければまだ数か月は大丈夫だった。
義父母との関係も悪くはなかった。
みすみの方は泰蔵にどこか距離を置いている印象だった。震災直後は同情がまさっていたようだったが、町も次第に活気を取り戻し始め、泰蔵の気力も徐々によみがえってくると、日ごとに父親への不満をこぼすようになった。
私の方は義父とは妙にウマが合った。みすみは遅くに生まれた一人娘とあって、義父は当時すでに六十半ばだったが、百八十センチ近い偉丈夫でなかなかの美男子だった。さぞや若かった頃はもてたに違いない。幸子さんが結婚せずに義父を慕いつづけていたという逸話もまんざら噓でもなく思えた。義父はざっくばらんで細かいことにこだわらない人だった。私のこともみすみの夫というよりは歳の離れた友人のように扱ってくれた。一緒に暮らすとなると、肉親同士よりも友達同士の方がずっといい。そのぶん他人としての節度を保ちやすかった。
その後四か月かけてなんとか二百枚の原稿を仕上げ、十月の初めに佐伯さんに送った。
二週間ほどして連絡が来た。結論は「掲載はむずかしい」というものだった。
自信作というほどではないが、自分なりに力を込めて書き上げたものだったので、落胆は大きかった。作品が雑誌に載れば原稿料が入る。S社は文芸出版の老舗なので、たとえ私のような新人でも一枚三千円は支払ってくれると聞いていた。二百枚となれば六十万円。私たちにとってはまさしく干天の慈雨に等しいお金だった。
断りの電話を貰って半月ほど経った頃、ふたたび佐伯さんが連絡をくれた。
「新しいテーマを見つけて書き出すまで多少時間もかかるでしょう。それまでの生活保障と言っては何ですが、よかったらラジオの台本を書いてみませんか。実は私の大学の同級生が神戸でラジオディレクターをやっていて、筆の立つ人を探してるらしいんですよ」
掲載不可になった作品は、書き直せば復活するものではなく、完全なボツ原稿だった。
<今回の震災を思い切ってテーマに据えてみませんか? 新しい原爆文学をめざすような、戦後の焼け跡闇市派の文学を飛び越えていくような、そういう挑戦的な作品をいまこそ若い中林さんに書いてほしいと私は願っているのです。>
佐伯さんは、原稿を返送してくれた際の添え状にそうはっきりと書いてきた。
やはり編集長ともなれば、文芸誌といえども世間の耳目を集めるテーマを欲するのだろう。だが、その期待には当分こたえられそうになかった。
「ぜひやらせてください」
と佐伯さんの話に飛びついたのは、そうした背景があったためだ。
紹介されたのは、NHK神戸放送局のディレクターをやっている大神順哉という人だった。佐伯さんの話とは違って大神さんはすんなり私に仕事を与える気などなかったようだ。真っ先に「脚本の経験は?」と訊かれ、首を振ると「だったら、とりあえずテーマは何でもいいので三十分のラジオドラマの台本を一本書いてきてください。話はそれからです」と突き放すように言われた。三十分のラジオドラマと聞いても私にはちんぷんかんぷんだったが、大神さんはサンプルとなる台本を渡してくれるわけでもなかった。
神戸駅前のNHK神戸放送局を辞去したあと、その足で市立中央図書館に向かい、ラジオの台本集を何冊か借りて帰った。それらを参考に一週間かけて台本を書き上げた。持参すると、大神さんは私を応接室に待たせて別室でそれをさっそく読んだ。ものの十五分くらいだったろうか。応接室に戻ってくると立ったまま右手を差し出してきた。
「中林さん、非常にいい台本でした。まずはこの作品からドラマ化させてもらいます。今後とも何卒よろしくお願いします」
それまでとは打って変わった態度と言葉遣いで彼は私の手を握ってきたのだった。
大震災と地下鉄サリン事件で日本中が騒然となった一九九五年が暮れ、新しい年がやって来た。
不況の様相はますます色濃く、大手スーパー各社はそろって元日営業に踏み切った。五日には村山首相が突然の退陣表明を行ない、いともたやすく政権を投げ出してしまった。
ラジオドラマの原稿料はびっくりするほど安かったが、私は正月早々より週一、二本のペースで台本を書きまくった。神戸に来て八か月が過ぎ、とうとう蓄えがなくなってしまったのだ。かといって、震災で傷ついた町で割のいいアルバイトを探すのは難しかった。何よりの誤算は、古くからの貿易港である神戸には英語を使える人間が山ほどいたことだ。ここでは英語は大した武器にならなかった。
みすみは相変わらず再開した店の経営で忙殺されていた。当然ながら売り上げは震災前の半分以下で、彼女が給料を取るなど夢のまた夢だった。
寝食の不安はなかったが、私たち夫婦が生きていくためには、とにかく私が稼ぐしかなかった。
須磨にやって来て一年が過ぎた頃から、みすみと泰蔵の不仲が露呈してきた。
店のやり方を巡って口論が絶えなくなり、たまにみすみが店番を投げ出すようなこともあった。泰蔵は震災前の取引先との関係をあくまで大事にしようとしていたが、みすみにはそれでは品揃えも含めて新しい店は立ち行かないという思いが強かった。
「メーカーさんにしても問屋さんにしても、親身になってくれたのは数えるほどだったのよ。お酒以外の商品を並べると、『うちはそのへんのコンビニと違うわい』っておとうちゃんはすぐに怒るけど、この先のことを考えたら、私は正直、コンビニに転業するのもありかなって思ってるの。もちろん、商店街の人たちには総スカンかもしれないけど、そんなこと言ってたらうちだってミシマ屋さんと同じになるだけよ」
ミシマ屋というのは、震災で店舗が潰滅し、営業再開をあきらめた同じ商店街の酒屋のことだった。
店の今後をめぐって新旧の世代が対立するのはいわば当たり前だった。
私は、一年余り、この父娘を間近に見てきて、二人がどうしても本当の意味で打ち解けないのは何か大きな別の原因があるからではないかと感じていた。
そう思う一番の理由はやはり幸子とみすみとの関係だった。結婚当時のみすみの説明では、彼女が高校を中退して家を飛び出したのは、継母の幸子との折り合いが悪かったからだった。
だが、どう考えても幸子がなさぬ仲のみすみに辛く当たったとは思えなかった。幸子はそんな人ではなかった。また、過去にそうした経緯があったのならば、みすみだってこれほど仲良くできるはずがない。
台本の仕事は好調で、ドラマだけでなく昼間の番組の構成台本の仕事も大神さんから請け負うようになった。ギャラは変わらずだったが、数をこなせばそれなりの収入を確保することができた。
大神さんは親しく付き合ってみると、佐伯さんとはまた一味違った好人物だった。
佐伯さんは完璧主義者のきらいがあって、作品評にしても、表現の一つ一つから構成、筋立てにいたるまで事細かに指摘してくるが、大神さんはほとんど注文らしい注文はしてこなかった。ドラマの台本にしても、「こんな時節ですし、できれば軽く笑えるような楽しい話を書いてください。でも、そういうのが書きたくないときは、中林さんの好きなものを書いてもらって構いませんから」と言うくらいだった。
「才能ってのは草花じゃなくて樹木だと僕は思ってるんです。人間があれこれ手を加えなくても大きくなる木は勝手に大きくなるんですよ」
というのが彼の持論だった。
ラジオドラマの仕事は、“とにかく毎日書く”という習慣を私の身につけさせてくれた。最初は筆が荒れるのではないか、小説の文章を忘れてしまうのではないかと不安だったが、台本を量産しているうちに、何かを書いて食べるというのはこういうことなのだと分かった気がした。
小説だろうが台本だろうが何だろうが、自分はものを書いて食っていくのだ、と私は腹を固めた。
一・一七から一年半が過ぎて、ようやく震災のことが書けるような気がしてきた。
人間の死とは何なのか、ことに自らには一点の非もないままにいきなり命を奪われるような死に方に一体いかなる意味があるのか、またそうやって大切な人を失くした人々は、過酷な体験をどう受け止めて生きていけばいいのか―そうした大上段に構えたテーマを持ち出そうとするから何も書けなくなってしまうのだ。いっそ自分自身が実際に体験したありのままを小説にしてみてはどうだろうか。
そう気づいた瞬間に、私の中にくっきりとした創作の芯が生まれた。
これで書き出せる、と思った。
九月に入ると作品に着手した。むろん生活の糧であるラジオ台本の仕事をやめるわけにはいかなかったので、昼間は台本を書き、夜中は小説の執筆にあてた。
ずっとやめていた煙草を吸い始めたのもその頃だ。写真をやっているとき、くわえ煙草で作業する習慣が抜けずに何度も現像液やプリントに灰をこぼしてやり直していた。それもあってある日、きっぱりと煙草と縁を切ったのだった。
原稿書きだとそのような支障は出ない。合間の一服がそのうち原稿を書きながらの一服となり、気づいてみればチェーンスモークになっていた。
みすみは煙草が苦手だった。「須磨」をやっているときも「お店をやるのは全然苦じゃないけど、煙草のにおいがねえ」とよく愚痴っていた。それもあって、私はみすみが店に下りているときは吸ったが、店が終わって二階に戻って来てからは仕事部屋でも極力控えるよう注意していた。二階は和室が三つで、通り沿いの六畳二間はつづきの間だったが、洗面所やトイレと並んである裏手の四畳半は独立していた。その四畳半が私の仕事部屋だった。
小説を書き出して一か月ほどして、私は近所に小さな部屋を借りた。
商店街はいまだに仮設店舗が半分以上だったが、新装なった不動産屋の前を通りがかると看板に書かれた物件の一つが目に飛び込んできた。六畳一間の新築アパートで、家賃は月額四万円。ユニットバスもついていた。家からも自転車で五分ほどの距離だった。
四万円の出費は軽くはなかったが、思い切って借りることにした。
滑り出しは好調だったし、この小説はいけるという感触があった。それを確かなものにするために何か弾みのようなものが欲しかった。
さっさと契約を済ませ、みすみに報告した。
私が夕食の席で説明しているあいだ、みすみはぽかんとした顔をしていた。
夕飯はずっと幸子さんの手料理を下で四人で食べていたのだが、義父とみすみとの間がぎくしゃくしはじめてからは別々にとるようになっていた。私が仕事部屋を外に移したくなった理由の一つは、彼らの醸し出すそうした険悪な雰囲気から逃れたかったからだ。
「どうして私に一言の相談もなしに、そんな大事なことを決めたの」
怒りを押し殺したような声でみすみは言った。
今度は私の方がぽかんとする番だった。
「だから、こうしていま伝えてるじゃないか」
さすがにむっとして言い返した。
「だって、もう決めてきちゃったんでしょう」
義父と対立するようになって以降、みすみの言葉遣いは標準語に戻っていた。
「分かってくれよ。この数か月が勝負なんだ。今度の作品がうまくいかなかったら佐伯さんにだってさすがに愛想を尽かされる。もうあとがないんだ。いまの僕の稼ぎからしたら贅沢な話かもしれないけど、とにかく作品に集中したいんだよ」
私はさきほどと同じ説明を繰り返した。
「だったら部屋を借りる前にそういう話を私にしてくれるべきだったんじゃない」
「順番が逆になったのがそんなに気に障ったのなら謝るよ。だけど、いっつも忙しそうにしてるし、最近は僕が起きる頃にはきみはいないし、言い出すチャンスがなかったんだ。それに正式に契約してきたのは今日のことなんだし」
私はこの家で義父母と同居を始めたときに、店の経営には口を出さない、店番を含めて手伝いは一切しない、店舗にも下りないと決めていた。この家で店にかかわるというのは即内情に立ち入ることだった。長く一緒に暮らすにはその種の差し出がましい真似は控えておいた方がいいに決まっている。
「これって、順番がどうのって話じゃないでしょう。夫婦の根幹に関わる話じゃない」
「そんな大げさなこと言わないでくれよ。僕はただ落ち着いて仕事がしたいだけなんだから」
「いまだって立派な仕事部屋があるでしょう。私は邪魔なんてしてないわよ」
「だからそういうことじゃないんだよ」
「じゃあ、どういうことなの。妻に内緒で部屋なんて借りて、よくそんな開き直ったセリフを口にできるわね」
「誰がいつ内緒にしたんだよ」
「してたでしょう。ついさっきまで」
父親の泰蔵と口論が絶えなくなって以来、みすみの口調は普段でもきつくなっていた。本人はそのことに気づいていないようだった。
「もういいよ」
と私は言った。こんなことで口げんかするなんて馬鹿げている。
「何がもういいのよ。こんなんじゃあ、私たちまで駄目になっちゃうわよ」
みすみの一言に、私は気持ちを切り替えた。言うべきことを言うときが来たと感じた。
「この一年、ろくにセックスもしてないんだ。僕たちはとっくに駄目になってるよ」
この思わぬ反撃にさすがにみすみは黙った。
「ここでどうしてもしたくないんなら別の部屋を借りるしかないだろ。そういう心づもりもあったから相談抜きで借りたんだ。それをそんなに責めるなら、正真正銘、もう僕たちは駄目なんじゃないのか」
みすみは私の顔を見つめて、なおもしばらく沈黙していた。
この家に住み始めてから数回しか身体を重ねていなかった。あれほど好きだったみすみが、幾ら誘ってもあれこれ理由をつけて乗ってこなかった。初めてこの家に泊まった夜と同じだった。最初の数か月は状況が状況なだけにやむを得ないと私も受け止めていた。
だが、年が明け、町全体が幾らか落ち着きを取り戻し、店の営業がそれなりに安定してからも、みすみは拒みつづけたのだ。
半ば犯すように幾度か関係を持ったが、私にはそういうセックスへの嗜好は皆無だった。そのうち誘うのも面倒になり仕事部屋で自慰にふけるのがもっぱらになっていた。
「ごめんなさい」
みすみはようやく口を開いた。
「謝ってほしくて言ったんじゃない。理解してほしくて言ったんだ」
「分かったわ。お部屋のことは認めます。ただ、合鍵はちょうだいね」
「そんなの当たり前だろ」
私が笑うと、みすみも小さく微笑んだ。
「ところで、きみとおとうさんの不仲のほんとの原因は、おとうさんの再婚なんかじゃないんじゃないか」
私はこれまで訊かずにいたことを初めて口にした。
「どうしてそんなことを言うの」
いかにも不思議そうな表情になってみすみが問い返してくる。
「ずっときみたちを見ていてそんな気がするからさ」
そこでみすみはふたたび黙り込んでしまった。私は追いかけることはせずに彼女の次の言葉を待った。
「あの人のことが子供の頃からどうしても好きになれないの。理由なんてない。だから、私もつらいのよ」
みすみはぽつりと言い、
「ねえ、ヒックン」
久々に私をそう呼んだ。
「私、もう東京に帰りたいよ」
その声はひどく遠くのもののように聞こえた。
7 幸福な季節
仕事部屋を借りてからは原稿は順調に進んだ。
寝泊りすることも多かったので私は初めて携帯電話を買った。
店の主導権を泰蔵に奪い返され、店番くらいはやっていたが、みすみはもう商売に身を入れていなかった。
「住む場所を提供して貰っているんだから、全部放り出すわけにもいかないでしょ」
と口では言うものの、本音では一刻も早く東京に戻りたがっていた。
義父ひとり店に残して、しょっちゅう私の仕事場にやって来た。
小説は夜中にやって、昼間はラジオの台本を書いていた。すっかり手つきを憶えている作業なので、みすみがそばにいてもさほど気にはならなかった。
みすみは執筆している私の後ろで本や雑誌を読んだり、万年布団で昼寝をしたりした。
台本書きに一区切りつくと、きまってみすみを抱いた。
真昼間から大きな声を上げるので、「そのうちきっと苦情がくるよ」とみすみは笑っていた。
いまの作品が書き上がり、佐伯編集長のお眼鏡にかなったら、その時点で東京に帰ろうと私たちは話し合っていた。一作、文芸誌に掲載された程度で作家としてやっていけるかどうかは未知数だったが、もの書きとして食っていくのならばやはり東京が有利だった。小説ならずとも、それこそテレビ・ラジオの構成作家の仕事や雑誌のアンカーのような仕事であればわりと簡単に見つけられるだろう。
一回りも二回りも筆を持つ腕が太くなったような気がしていた。小説にあらためて取り組んでみてそれが実感として分かった。書き飛ばすようにして書いたラジオドラマだったが、量産が自分の書き手としての線の細さを払拭してくれたようだった。
大神さんにも、その大神さんを紹介してくれた佐伯編集長にも感謝してもしきれない気持ちだった。
どのみち来年の夏あたりには東京に帰れるだろうと踏んでいた。
この小説はきっとうまくいく、という確信があった。
着想に窮したり、気分転換したいときには、みすみと一緒に須磨寺を散策した。
須磨寺前商店街の入り口から山側に七、八分歩くと、左手に須磨寺の塔頭三院の一つである正覚院があり、その先の放生池にかかる龍華橋を渡るとそこが須磨寺の仁王門だった。
正覚院にはご本尊の愛染明王とともに水子地蔵が並んでいて、みすみはその前を通ると必ず立ち止まり、賽銭を入れて掌を合わせた。
須磨寺は趣のある大寺だった。
広々とした敷地内に本堂、大師堂、護摩堂、経木供養所などが建ち並び、本堂につながる立派な唐門の手前には不動明王をまつる蓮生院や阿弥陀如来を本尊とする桜寿院などの塔頭が門を構えている。経木供養所から三重塔を通り、墓地のあいだの坂道を上っていくと奥の院に通ずる参道があった。奥の院にはむろん宗祖弘法大師がまつられていた。
真言宗須磨寺派の大本山だが、学生時代に写真旅行で一度だけ訪ねた高野山とよく似ていた。
東京育ちの私には、自分の住まいのこんなすぐ近くに、これほどの歴史と由緒を有する荘厳な寺院があること自体が不思議だった。
「こんなところで生まれ育つなんて、みすみはすごいよ」
しきりに感心してみせると、
「そんなの全然すごくないよ」
彼女は言うのだった。
仁王門の左手、法生池のほとりには山本周五郎の文学碑が立っていた。周五郎の文壇デビュー作である『須磨寺附近』は、ここ須磨が舞台の悲恋小説だった。
あることで精神的に打撃を受けてしまった主人公の清三は、親友の青木の誘いで須磨に保養にやって来る。青木は米国赴任中の兄宅に美貌の嫂(あによめ)・康子との二人暮らしで、その家の空いた部屋に清三を寄宿させたのだ。清三はやがて康子に思いを寄せるようになるのだが、康子は最後まで気があるような、ないような女性特有の態度に終始する。
思い余って迫る清三に、康子が、
「我慢なさい」
ぴしゃりと言い放つ場面は私もよく憶えていた。
文学碑にはその『須磨寺附近』の一節が刻まれていた。
<須磨は秋であった。…
ここが須磨寺だと康子が云った。池の水には白鳥が群を作って遊んでいた、雨がその上に静かに濺いでいた。池を廻って高い石段を登ると寺があった。…
「あなた、生きている目的が分りますか」
「目的ですか」
「生活の目的ではなく、生きている目的よ」>
私は周五郎の愛読者だったので、初めてこの碑文を見たときはちょっとした感動を覚えた。
「すごいね」
みすみに言うと、
「そう……」
ぴんとこない返事が返ってきた。
いまにして思えば、手をつなぎ、毎日といっていいほど共に須磨寺を歩いたあの頃が、私たち夫婦にとって最も幸福な季節だったのかもしれない。
一九九七年(平成九年)の年明けに、冒頭三分の一ほどの原稿を佐伯編集長に送った。
すぐに返事のはがきが来た。
「傑作の予感がします。この調子で、じっくりと書いていってください。期待しています」
と記されていた。
「電話してきてくれればいいのにね」
意外そうなみすみに、
「逆だよ。文字にしてくれたってことは佐伯さんは本気で買ってるってことだ。これからは、このはがきを毎日見ながら僕が書くだろうと分かっているのさ」
私は言った。
佐伯さんの口癖である「じっくり」、「焦らずに」を念頭に置きながら、作品を書き進めていった。
三月の末に脱稿した。二百四十枚。これまでで最も長い作品になった。
四月に入り、多少手直しした上でプリントアウトした原稿を郵送すると、十日ほどして佐伯編集長から携帯に電話が入った。
「とにかく興奮しています。詳しくは明日お目にかかって」
それだけ言うと、佐伯さんはこちらの都合も聞かずに電話を切った。
次の日の午後、ふたたび携帯が鳴った。いま新神戸にいるのだが、この足で仕事場にお邪魔していいだろうか、と言う。
店番をしていたみすみを大至急呼び戻し、私たちは佐伯さんを迎える準備をした。
「こんな狭いアパートじゃ失礼じゃないの」
みすみは困った顔をしたが、
「そんなことないよ。僕がどういうところでどんなふうに書いているか、ありのままを見てもらった方がいい。向こうもそのつもりで来るんだよ。きみにもきっと会いたいんだ」
そう言うと、その表情がぱっと明るくなった。
六畳一間の狭い部屋で、三人車座になってすき焼きをつついた。
私は二年近く神戸に住んで、初めて神戸牛を食べた。あとで値段を聞いてあまりに高いので仰天した。
佐伯さんは作品を絶賛してくれた。
「これで本当にデビューです。しかも鮮烈デビューだ」
しばらく会わないうちに編集長としての貫禄が身に備わっていた。力強い物言いが板についている感じだった。人は変わるのだ。そして、自分もこれから大きく変わっていくのだ、と思った。
灘の生一本を三人で二升近く飲んだのではなかったか。
「タイトルなんですが、『快挙』にしませんか?」
途中で佐伯さんが言い出した。『快挙』はS社の新人賞で最終候補まで残った作品の題名だった。私が怪訝な顔をすると、
「以前読んだ『快挙』よりも、今回の作品の方がより『快挙』に似つかわしい気がするんです。最初の『快挙』もいずれ改稿していただいて掲載しようと思っていますが、まずはその前にこのデビュー作を『快挙』というタイトルで出しませんか」
佐伯さんは言った。
私は気が進まなかった。生まれて初めて書いたかつての作品と今回の作品とはまったく別物だったし、作品のレベルも比較にならなかった。新しい酒は新しい革袋に入れたいと思った。
「ぜひそうしようよ」
すると、みすみが不意に言ったのだ。
「快挙がいいと私も思う。インパクトもあるし内容にもしっくりしてる気がする」
みすみはむろん作品を読んでくれていた。私がつけたタイトルが地味だったのは自分でも認める。ただ、震災に遭遇した小さな居酒屋が舞台の小説に『快挙』というタイトルがそぐわしいとはあまり思えなかった。
「じゃあ、快挙でいきましょう」
佐伯編集長は酔いも手伝っていたのだろう、きっぱりと言った。
彼にそう言われると反対はできなかった。みすみがいいと言うのなら、それでいいじゃないかとも思った。『快挙』のゲラを神棚に供え、毎朝掌を合わせていた彼女の姿が脳裏によみがえってきた。
「さっそくゲラにして送ります。ゴールデンウィーク明けには校閲済みのものを出せると思いますから」
その夜遅く、佐伯さんは満面の笑みを浮かべ、予約しているホテルがある三宮へと引きあげていった。
8 <デスク 今西太郎>
一九九七年五月七日水曜日の深夜。
その日は、中林酒店の二階で眠っていた。茶の間の座卓に置いた携帯が鳴っているのに気づいて私は目を開けた。枕元の目覚まし時計を見ると、夜中の二時過ぎだった。
たまにとんでもない時刻に間違い電話が入るので、おそらくそれだろうとしばらく放っておいた。が、電話は鳴りやまない。そのうち隣のみすみも目を覚ました。
仕方なく寝床から這い出し、茶の間に行った。座卓のそばに正座して携帯を取った。通話ボタンを押して電話機を耳にあてる。
「中林さん、大神です。夜分にすみません」
という声が聞こえた。その声が異様に沈んでいる。
「どうしたんですか」
こんな時間に大神さんから電話が来ることなどこれまで一度もなかった。
「実は、いましがた佐伯君の奥さんから電話が来て、佐伯君が亡くなったそうなんです」
「えっ」
たしかあの瞬間、私は文字通り「えっ」と大声を上げたと思う。
「佐伯君が乗っていたタクシーが高速道路で玉突き事故に巻き込まれて……」
そこで大神さんは声を詰まらせた。
「即死だったそうです」
私は何も言葉を返せなかった。
「これからのことはまた追って奥さんから連絡があると思うので、そのときは電話してよろしいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
私は反射的に頭を下げていた。
「中林さん、僕はかなしい」
大神さんは呻くように言った。二人は大学時代からの親友で、大神さんは東京に出るたびに必ず佐伯さんと会っているようだった。家族ぐるみの付き合いだと佐伯編集長もかつて語っていた。
「残念です」
私はそれだけしか言えなかった。
佐伯さんの告別式は五月十日土曜日だった。朝一番の新幹線で上京した。
練馬の大きな葬儀場にはたくさんの人が詰めかけていた。
S社の社員たちが葬儀のすべてを取り仕切っているようだった。受付台に喪服姿の若い女性たちが立って、ひきもきらぬ弔問客を迎え入れていた。
祭壇の周囲には出版業界各社だけでなく、有名作家からの花輪がひしめくように並んでいる。老舗の文芸出版社で看板雑誌を任されていた佐伯さんは、私などが想像も及ばないような業界の花形だったのだろう。だが、彼は偉ぶったところなど一つもない誠実な人だった。一回り以上も年下の私に対してもぞんざいな態度を取ったことなど一度もなかった。
遺影に掌を合わせ、顔を覗いた。一か月足らず前に狭い仕事場で酒を酌み交わしたばかりの陽気な佐伯さんが、こうしていま棺の中に横たわっているのが信じられなかった。
あの晩、酔っ払ったみすみはアカペラで何曲も歌った。彼女は高校時代バンドを組んでいて、ボーカルをつとめていた。たまにカラオケで歌声を聞いたが、素人の域を超えたうまさだった。
得意の今井美樹を披露すると、「いいなあ、今井美樹はいい」と佐伯さんはしきりに頷いて、前年に大ヒットした「PRIDE」を何度もリクエストした。
「佐伯さん、奥さんのほかに誰か好きな人がいるんだね」
翌朝、みすみが確信めいた口調で言った。
開式まで三十分ほどあったので、私はもう一度受付に寄った。
人の列が途切れた一瞬をつかまえて、受付を仕切っているように見えた中年の女性に声を掛けた。佐伯さんの雑誌の名前を言い、そこの編集部の人を探してくれないかと頼んだ。「神戸の中林といいますが……」と名乗ると、女性は「かしこまりました」とすぐにその場を離れていった。
葬儀の席で自分の原稿の件を問い合わせるのは気が引けたが、それだけはしないと帰るに帰れない気持ちだった。
『快挙』は私と佐伯さん二人の仕事だった。
五分ほどすると、小太りの男性が受付の女性に伴われてやって来た。黒縁眼鏡をかけ、たっぷりの顎髭をたくわえている。やさしそうな眼差しの人だった。
昨日あわてて作ったばかりの名刺を差し出すと、
「ああ」
彼は合点がいった表情を作り、急いで自分の名刺を取り出した。受け取った名刺には<デスク 今西太郎>と記されていた。
「中林さんのことは佐伯からよく伺っておりました。いただいたお原稿も拝読しました。佐伯同様、素晴らしい作品だと思いました」
彼はそう言い、
「もうゲラになっていたはずですが、佐伯から送られて来てはいませんでしょうか」
と訊いてきた。
「はい、まだ受け取っておりません」
「そうですか。でしたら、佐伯の机を調べて、事前にご連絡を差し上げてから、できるだけ早く郵送させていただきます。すでに来月のラインナップに入っていますので、今後のやりとりは佐伯に代って私がすべて担当させていただきます」
「申し訳ありません」
「何をおっしゃいます。こういう言い方は不謹慎かもしれないですが、佐伯の遺言のような作品です。全力で引き継がせていただきます」
今西デスクはあくまでも丁重だった。
しばらく佐伯さんの思い出などを二人で話した。
「しかし、中林さん、お若いんですね。あの作品をこんなお若い方がお書きになったなんて、何というか驚きです」
ようやく今西さんがざっくばらんな口調になった。「中林さんはまだ若いんですから、どうか焦らないでください」という佐伯さんの口癖が耳朶によみがえってきた。
だが、その私も四月ですでに三十歳になっていた。
私は今西さんの言葉に目の前の霧が晴れたような心地になった。佐伯さんを失った衝撃が幾らか和らぎ、亡くなった彼のためにも『快挙』を絶対に成功させなくては、と決意を新たにして神戸に帰った。
しかし、待てど暮らせど今西さんから連絡はなかった。ゲラも送られては来ない。
葬儀からちょうど一か月が経った六月十日、たまりかねて編集部に電話した。電話口に出てきた今西さんは弱りきったような声で、
「申し訳ありません。新しい編集長が中林さんの原稿を読んで、掲載は難しいと言っているんです」
と言った。
余りのことに一瞬、声を失った。
「理由は何でしょうか」
何かどうしても掲載できない事情が出来したのではないか、と思ったのだ。
「それが……」
今西さんはますます言いにくそうな声になる。
「いまさら震災の話でもないんじゃないかと言っているんです。ほら、いまそちらは例の事件でたいへんじゃないですか。神戸だったらそっちだろうって。何しろ今度の編集長は週刊誌が長かった人なので、どうしてもアクチュアルなテーマにこだわりたがるみたいで……」
今西さんの言い草には啞然とするしかなかった。例の事件というのは、五月二十七日に私の住む須磨区で発生した猟奇殺人事件のことだった。友が丘にある中学校の正門に少年の頭部が置かれ、「酒鬼薔薇」と名乗る人物による異様な犯行声明文が残されていた。六月四日には犯人による第二の声明文が神戸新聞社に届き、日本中がこの事件の話題で持ちきりの状態だった。
「しかし、幾らなんでもそれはおかしいんじゃないですか。僕の書いた小説と須磨の殺人事件とは何一つ関係なんてないですよ」
さすがに納得できなかった。自分の書いたものを土足で踏みにじられたような気がした。それはとりもなおさず、あの震災で亡くなった数千人の人たちを侮辱することでもある、という気がした。
「たしかに中林さんのおっしゃる通りなんですが、なにぶん編集長が載せられないと言っているので、こうなるともうどうにもならないんです。本当に申し訳ありません」
それ以降は、幾ら粘っても今西さんの物言いは変わらなかった。どうやら、新しい編集長は私の作品をこきおろしているらしかった。
三日後には簡単な詫び状とともに原稿が送り返されてきた。
<追伸・ゲラ刷りは、こちらの方で処分させていただきました。>とあったから、佐伯さんはゲラにしてくれていたのだろう。
何がアクチュアルだと思った。ただ、そう憤慨する一方で、震災をテーマに据えてくれと強く言ってきた当時の佐伯さんの中にも、この原稿を全否定した新しい編集長と同じ感覚が潜んでいたのは事実だと思った。そして、その「アクチュアル」に迎合して、大震災からたった二年足らずで小説を書き始めた愚かな自分がいたことも紛れもない事実だった。
人の死を小説にするならば、その核となる「死」を自分自身が体験しなければならない。愛する者を奪われた人間のかなしみは、実際に奪われた人間でなければ理解できるわけがない。ましてそれを小説にするといった大それたことは、よほどの体験をした者でなくてはやってはならないのだ。
私はそんな当たり前のことにようやく気づかされたのだった。
みすみは、自分の落胆を決して表に出さなかった。
『快挙』の掲載が決まり、そうすれば東京に戻れると信じていただけに彼女のショックも大きかったに違いない。だが、何一つ愚痴はこぼさなかった。
「ヒックン、絶対にあきらめちゃ駄目だよ」
と言った。
「ヒックンにはすごい才能があると私は思う。この小説だっていつか必ず日の目をみるときが来るし、その前に書いたのだって、前の前に書いたのだって、いつかきっとたくさんの人が読んでくれるようになる。絶対そうなるって私は信じてるよ」
だが、幾らそんなふうに励まされても、私の受けたダメージはそうやすやすとは回復しそうになかった。
原稿が送り返されて来て半月後の六月二十八日、須磨の事件の犯人が逮捕された。
十四歳の男子中学生だった。その後、彼が二月、三月に相次いで発生した女児四人連続殺傷事件の犯人であることも判明し、日本のメディアはしばらくのあいだ、この事件一色に塗りつぶされていくことになる。
9 ㆒陣の風
私は何もする気が起きなかった。放心状態が数日つづき、じきに憂鬱が胸にべっとりとはりついて容易には剝がせなくなった。
前途を断たれたと思った。『快挙』という一作品が否定されただけでなく、佐伯さんという存在を失うことで作家としての道そのものが塞がれてしまった。私の作品を認めてくれる人はおろか、私が小説を書いていると知っている人さえいなくなってしまった。
何もかも一からやり直さなくてはならない。
「大丈夫よ、あなたには『快挙』があるじゃない」
みすみはそう言い、
「だったら一から始めましょうよ。『快挙』をどこかの雑誌の新人賞に応募すればいいじゃない。佐伯さんが掲載するとまで言ってくれたんだよ。新人賞くらい絶対に貰えるわよ」
私を勇気づけようとした。
そんなことあるわけがない、と私は思った。作品の出来不出来ではないのだ。根本的な原因はこの私自身につきまとう不運の影にある。
ラジオの仕事も失ってしまった。
大神さんが六月一日付で札幌の放送局に転勤して行ったのだ。
佐伯さんの葬儀の日、火葬場に同行する人々の列の中に大神さん夫婦を見つけて立ち話をした。そこで、突然、異動の件を告げられた。今西さんと会ったあとだったので、私はさほど動揺することなく受け止めた。もともと『快挙』が掲載されれば間を置かずに東京へ帰るつもりだったから、渡りに船だと嬉しかったくらいだ。
しかし、いまとなっては大神さんの不在は、佐伯さんの不在とは別の意味で致命的だった。
ラジオの仕事がなくなれば収入の道を断たれてしまう。
アパートなんて借りている余裕はまったくない。それどころか一刻も早く違う仕事を見つけねばならなかった。
七月に入ってすぐ、S社の今西さんが電話を掛けてきた。声を聞いたときは一瞬、『快挙』が生き返ったのかと思ったが、全く別の話だった。S社で発行する週刊誌が少年Aの事件を大々的に取り上げるので、今後、定期的に現地の声を拾った短いルポルタージュを送って来てくれないかというのだった。
「編集長も中林さんのことはやっぱり気にかけてるみたいで、引き受けて下さるなら、すぐに週刊誌の編集部につなぐと言っているんです。何しろ、中林さんは須磨に住んでいるわけだし、土地勘は抜群ですよね。どうですか? うちの週刊も、半年くらいはこの事件を徹底的に追いかけるみたいなんで、毎週とはいかないと思いますが、結構発注はさせてもらうことになると思います。むろんボツ原稿でもギャラはお支払いしますし、何しろ週刊誌なのでギャラはかなり高めです。決して悪い仕事じゃないと思うんですが」
相変わらず、今西さんは人のよさそうな声で喋る。
「そうですか……」
『快挙』の件ではないと知って落胆は隠せなかったが、すぐに気持ちを切り替えた。
「なにぶん、ルポなんてやったことありませんし、近所だとはいえ事件のことは報道でしか知らないんです。自分にできるかどうか考えて、明日にでも返事をさせてください」
私は前向きの姿勢をにじませながら電話を切った。
ラジオの仕事がなくなったからには、こんな仕事でも引き受けるほかはないと思った。S社との関係を切らないためにもやらざるを得ないだろう。
夕方みすみが仕事部屋にやって来た。
もう一か月近く、私は仕事部屋で何もせずにごろごろしていたのだった。
さっそくみすみに今西さんの話を相談した。
「一生、ものを書いて食っていくと決めてるんだ。あんまり気のすすむ仕事じゃないけどやってみるつもりだ」
私が言うと、
「ヒックン、そんなの絶対駄目だよ」
みすみは呆れたような表情になった。
「そんなの男らしくないよ」
私の目を凝視してくる。
「その話、明日、必ず断ってね。ヒックン一人くらい私が幾らでも養ってあげるよ」
真っ直ぐな視線でみすみは言った。
翌日、今西さんに断りの電話を入れた。そのあと、私はプリントアウトした『快挙』を封筒に入れてK社の文学新人賞係あてに発送した。K社の新人賞の応募締切は七月末となっていた。
仕事部屋は七月いっぱいで引き払った。
掃除をすませ空っぽになった部屋を去るとき、むなしさがこみ上げてきた。
畳の真ん中を見据えた。つい三か月ほど前、この場所で佐伯さんと車座になって三人で神戸牛のすき焼きを食べた。日本酒をさんざん飲み、深夜、真っ赤な顔に大きな笑みを浮かべて佐伯さんはここを出て行った。
「これで本当にデビューです。しかも鮮烈デビューだ」
佐伯さんの高揚した声が聞こえてくるようだった。
中林酒店の二階に戻ってすぐ、私は風邪を引いた。夜中にいきなり高熱が出て、三日三晩、ろくに眠ることもできなかった。
寝冷えしたわけでも雨に打たれたわけでもなかった。夏風邪にはまだ早かった。
ただ、一つ不思議なことがあった。
高熱が出た日の昼間、私はひとりで須磨寺に散歩に行った。三十五度に迫るような猛暑とあって日差しの照りつける戸外にほとんど人影はなかった。急な石段を上がって唐門をくぐり、本堂に参拝した。本堂の庇の下にしばし涼み、無人の境内を真っ白に染める強烈な夏の光を眺めていた。
そのとき、横合いからゴーッと音立てて一陣の風が吹きつけてきたのだった。
それはまるで古井戸を覗き込んだときのようにひんやりしていた。
私は思わず風の来た方向へと顔を向けた。
だが、そこには何もあるわけはなく、吹いてきた風もそのたった一度きりだった。
錯覚とも思えない。げんに風が当たった右の頰や肩口のあたりには冷ややかな感触がいまだに残っていた。
一体、何だったのだろう?
薄気味悪い心地がして、私は本堂に向かい合掌し直し、陽光があふれる境内へと戻ったのだった。
乾いた咳がしきりに出るようになったのは、熱が完全に引いてぐっすり眠れるようになったあとからだった。もしかすると風邪をきっかけに小学校時代にずいぶんと苦しんだ喘息がぶり返したのではないか? 仕事場を解約したのを機に煙草はやめたが、執筆中のヘビースモークが原因かもしれないと考えた。
空咳はずっとつづいた。
お盆を過ぎても治らないので、あらためて近所の耳鼻科に行った。診断は咽頭炎。上咽頭に炎症があるとのことで抗生剤と咳止めを処方された。
八月の末に、みすみは仕事を見つけてきた。三宮にある神戸海外貿易協会の事務所にアルバイトで勤務することにしたのだ。東京にいるときは、みすみは接客業が一番得意で書類仕事には向かないのだろうと思い込んでいたが、震災後、中林酒店の立て直しに奔走している様子を見ていると、なかなかどうして店舗経営の煩雑な経理事務にも長けているのだった。
貿易協会の仕事も彼女だったら満足にこなせるに違いなかった。
斡旋してくれたのは高校時代の同級生で、高三の初めまで一緒にバンドを組んでいた仲間だった。彼女の夫が神戸市の港湾局に勤務していて、そのコネを利用したようだ。
バイトといっても健康保険も雇用保険もつく好条件で月収も悪くはない。
「これでしばらくは何とかなるから、ヒックンはその咳を早く治して、また新しい小説に取りかかってね。『快挙』が新人賞を貰ったらどんどん新作を発表していかなきゃならなくなるんだからね」
みすみはあくまで前向きだった。
しかし、咳はなかなかおさまらなかった。喉の奥に異物が詰まったような感覚が抜けず、息をついた拍子にものすごく咳き込んだりする。耳鼻科のくれた咳止めはあまり効かなくて、子供の頃から愛用していたブロン咳止めシロップをふたたび飲むようになった。就寝前に定量の二倍飲むと、朝方までさほど咳に悩まされずに眠ることができた。
みすみが早くに出勤するようになって生活は規則正しくなった。
店は泰蔵と幸子で切り盛りしていたが、みすみも店のことに口を出さなくなり、父と娘の関係は徐々に落ち着いてきていた。土日は一緒に夕食を食べるようになった。勤めが始まってからは、みすみが残業のときなどは一階で義父母と私の三人で食卓を囲んだ。幸子の料理は野菜と魚中心の地味なものが多かったが、味付けはしっかりしていてとてもおいしかった。
ただ食事中に咳き込むこともしばしばで、日中から咳が絶えないときは夕方一階に下りるのを遠慮するようにしていた。
昼間は仕事部屋に籠って新しい小説に取り組んだ。みすみ一人働かせて、自分は何もしないでは気が済まなかった。しかし、筆は重く、冒頭から文章は停滞してうまく流れない。無性に煙草が吸いたかったが、一服でもすればそれこそ咳で執筆どころでなくなるのは必定だった。
十月に入って秋風に冷たさが増してくるとようやく咳も少しおさまってきた。
みすみの方は、仕事もおおかた習得し、割と快適なOL生活を送っていた。
「会社って案外おもしろいね」
初めて組織で働くようになって、席次一つの差で上司部下の関係が生まれること、部内融和と称した飲み会が頻繁に行われること、女子事務員同士でも微妙な派閥争いがあることなどなど、もろもろの会社員生活がとにかくものめずらしそうだった。
みすみの話を耳にするにつけ、彼女以上にそういう世界に疎い自分が情けなかった。
大学二年の頃に写真と出会い、すぐにカメラを手に街に出た。一年足らずでまとめた連作があっという間に新人賞を射止め、そこからは写真家になれると思い込んでまともな職を探す気など失くしてしまった。金策にさんざん苦労して通っていたせっかくの大学も中退で終わり、バブルが弾けたあとも変わらぬバイト暮らしで正業には一度もつかずじまいだった。
職歴といえば、十数種類は経験しただろうバイト仕事と五年近く勤めた浅草のホテルのフロント係くらいだ。このフロント係にしてもバイトだったが。
そんな貧弱な人生経験しか持ち合わせていない男が、そもそも小説家なんぞになりおおせると期待する方がどうかしているのではないか?
体調不良も手伝って思考はマイナスへマイナスへと落ち込んでいく。
仕事場を閉じてからはまたみすみとの肉体関係はなくなった。
咳がひどかったのも理由の一つだったが、やはりみすみが実家で身体をつなぐのを嫌がったのだ。
「貯金して、三宮の近くの部屋に引っ越しましょう。それまでの辛抱だから」
みすみはそう言い、実際、事務所の昼休みに三宮や元町の不動産屋を回ってあれこれ物件を見繕っているようだった。
十月の末に、私はまた風邪を引いた。
今回も夕方からいきなり高熱が出て、全身の悪寒が止まらなくなった。みすみが残業で遅くなる日で、寝室に布団を敷いて寒気を抑えようとしたが、ぶるぶる震える身体はまるで自分のものではないみたいだった。体温を計ってみると案の定、三十九度を超えていた。
十一時過ぎにみすみが帰宅したときは、満足に口がきけないほどの状態になっていた。
驚いたみすみがタクシーを呼び、雪江の妹が勤務している兵庫区の総合病院へと駆け込んだ。
救急センターで診察を受けた。インフルエンザかもしれないと思っていたが、当直の医師に「もう三か月も咳がおさまらないんです」と告げると、「じゃあ、胸部のレントゲンと、あと念のためCTも撮っておきましょう」と検査に回された。
病院に着いたとたん不思議に悪寒はおさまっていた。ただ、熱はさらに上がって四十度を超えていた。
思いのほか待たされた後、みすみと二人で診療室に呼ばれた。
医師はシャウカステンに並んだ二枚の胸部X線写真を指差し、
「肺に大きな影があります。CT画像も加味して考えるに、おそらく肺結核だと思われます。初期というよりは進行しているようですし、とにかく今夜から入院していただきます」
最初「結核」という言葉を聞いてもぴんとこなかった。
「けっかく、ですか?」
思わず問い返したくらいだった。隣のみすみと顔を見合わせ、しかし、私はそのうち納得の思いが心中に湧き起こってくるのを感じた。
ずいぶん以前から、この咳はふつうの咳ではないと内心では分かっていた気がした。
ここの病院には結核病棟がないということで、内科病棟の個室をあてがわれた。
担当する医師、看護師は緑のキャップに青のガウン、マスク姿で出入りするようになり、部屋の中で使用したものは決して外に持ち出さないように指示された。
「使ったものは感染源になる可能性があるため、すべてが処分されます。面会も制限されますが、奥様以外にどなたか病室に入られる方はいらっしゃいますか」
医師に訊ねられ、
「いえ、とりあえず私だけで結構です」
いきなりのものものしさに緊張の面持ちでみすみは答えていた。
その晩の記憶はそこまでだった。
点滴を受けていた私はじきに眠り込んでしまったのだ。
翌朝、目覚めるとみすみがそばにいた。一瞬、病室に泊まったのかと思ったが、昨夜とは服装が違うのに気づいた。
「何時?」
「九時過ぎだよ」
マスク姿のみすみは心配そうな瞳で私の顔を見ている。
「おとうさんたちには伝えたの」
結核となれば、厳重な感染経路の洗い出しが行われるはずだ。同居人は、いの一番に感染を疑うべき対象だろう。
「さっき一緒に来て、いま検査を受けてる」
「みすみは?」
「私は、昨日、済ませたから。レントゲンは問題なかったよ」
点滴の効果か、私の熱は三十七度台に下がっていた。
意識も昨夜よりはずっと清明だった。
結核予防法で規定されている結核の場合、医師が強く疑わしいと診断した段階でただちに保健所に通報しなくてはならず、あわせて「結核発生届」を提出する。通報を受けた保健所は、患者の家、勤め先、頻繁に立ち寄る場所、などなどを調べ上げ、それら感染経路に存在する人間たちの感染の有無を検査することになっていた。
私の場合であれば、私を運んでくれたタクシーの運転手、病院の受付、診察にあたった医師や看護師なども検査の対象になる。
昨夜、担当の看護師からそれらについて詳細な聞き取りを受けたとみすみは話してくれた。
真っ先に感染が疑われるのは妻のみすみだった。みすみの感染が確認されなければ彼女の職場へと調査を広げる必要もなくなるのだった。
ただ、みすみの実家が酒屋であるため、仮に義父母が感染し、しかも結核菌を周囲に撒き散らす状態だったりすると「接触者健診」の範囲は大きく広がってしまう。昨夜の看護師はそこを危惧していたようだった。
病巣の大きさや病状から考えて、私は、体外に結核菌を排出している感染性結核の可能性が高いというのが医師の診立てらしい。
「問題は、あなたが一体誰から感染したのかってことみたいだけど、いままでの生活ぶりを話したら、だんなさん御本人が感染源と考えていいんじゃないかって昨日の看護師さんは言ってたわ」
「だんなさん御本人が感染源」という一言に、私はげっそりしてしまった。
レントゲンの検査の結果、泰蔵にも幸子にも疑わしい所見はなかった。
三人は血液検査も行なっていたが、その結果が出るのは一週間後だった。
10 絶望
雪江の妹の病院に入院していたのは五日間だった。
そのあいだに私のたんや菌の遺伝子が調べられ、正式に「肺結核」と診断された。
みすみたちの方は一週間後の血液検査の結果も白だった。
私のたんの中の結核菌は多量で、感染性結核であることも判明し、保健所は本格的に感染経路の調査を始めたが、私がずっと引き籠り生活をしていたことがさいわいして、みすみの職場や中林酒店の顧客まで調査の範囲が広げられることはなかった。
接客は一切手伝わないという生活方針が思わぬところで役に立ったわけだ。
七月まで住んでいたアパートには保健所から連絡が行った。こちらもさいわい新しい入居者は決まっていなかったため空室のアルコール消毒程度で問題は解決した。
一九九七年十一月四日、私は牧野高原病院に転院した。
医師の話では、入院期間は長くて三か月程度だろうとのことだった。
三か月後の結核菌検査で陰性となれば、退院し、外来での治療に切り替わる。
退院後は半年ほど抗結核薬を飲みつづけ、大体はそこで治療完了となるようだった。
結核菌陰性というのは、早い話、たんの検査で三回つづけて結核菌が発見されなければ、他人への感染の恐れが消えたと判断するということだった。
私の病状は医師の予想とは異なり一進一退の経過をたどった。
十一月は薬の効果が顕著で、体調も改善し、入院生活はすこぶる退屈だった。
抗結核薬の副作用を助長するということで、意外に煩雑な食事制限があった。たとえば毎日の服用を義務づけられている四種の薬のうちの一つ、イソニアジドはチラミンやヒスチジンという物質と相性が悪く、これらを多量に含有しているチーズ、赤ワイン、ビール、レバー、マグロ、カツオなどの飲食は禁じられていた。
当然とはいえ酒は飲めないし、食事のたのしみもない。過激な運動は端から縁がないものの極力安静を求められるので、せいぜいテレビやラジオで無聊を慰めるしかなかった。
サッカーの日本代表が仏ワールドカップへの出場を決めたイラン戦もこっそりラジオで聴いたし、北海道拓殖銀行破綻のニュースも病室のテレビで観た。そして、十一月の下旬には四大証券の一角だった山一證券が自主廃業を決めるという驚くべきニュースも飛び込んできた。
十二月に入るとふたたび体調が悪化した。
たんにまざる結核菌の量が減らなくなっただけでなく、発熱や倦怠感が舞い戻って来た。結核の治療は四種の抗結核薬を毎日飲みつづけるのみだから、症状が増悪しても対症療法のほかには何もやるべきことがなかった。
クリスマスの頃になると、止まっていた咳が復活し、頭痛にも悩まされ始めた。解熱剤(げねつざい)、咳止め、頭痛薬と薬がどんどん増えていった。
倦怠感もひどく、日中もほとんどベッドに臥せってばかりいた。
定期的に撮影する肺のレントゲンを見ても、白い影の縮小はぴたりと止まってしまった。
「まさか多剤耐性菌に感染してるんじゃないですよね」
私はしきりに医師に訊ねた。耐性菌による肺結核は死亡率が高い。
「そういうわけじゃないんですけどねえ……」
医師は曖昧な物言いに終始した。
みすみの見舞いは週末に限られていた。
牧野高原病院は彼女の勤務先の三宮からも自宅のある須磨からもとにかく遠かった。住所は神戸市西区だったが、実際は神戸市と接する三木市との境界あたりに建っていた。交通手段は神戸電鉄か市営地下鉄、またはバスだったが、三宮からなら神姫バスが一番早くて、それでも片道五十分。須磨からであれば、地下鉄で「西神中央」まで出て「牧野高原病院前」を通る神姫バスに乗り換える。所要時間は一時間。とても仕事帰りに通えるような場所ではなかった。
この病院は戦後すぐに結核療養所として設立されていた。その後、結核患者の減少とともに一般病院となったが、いまも全国的に見ると結核患者の数が多い阪神地区では由緒ある結核専門病院として名が通っているようだった。
結核病棟への見舞いはさほど厳格ではない。
薬の進歩で、たいがいの結核患者は半月も抗結核薬を服用すると排菌しなくなる。そうすれば誰かと接触しても感染する可能性はなくなるのだった。
みすみにしても高性能マスクをしているだけで、別にそれ以上の防御はしていなかった。
ただ、泰蔵や幸子の見舞いはさすがに断ったし、咳がひどいときはみすみに対しても携帯のメールで病院に来ないように伝えた。六月から携帯各社が始めていたショートメールサービスは本当に便利だった。
十二月以降は、みすみが訪ねて来るのは月に二、三回がせいぜいで、あとはもっぱらメールでやりとりをしていた。
年が明けても病状は一向に改善しなかった。
咳もつづいていたし、夕方になると三十八度近い熱が出た。身体は怠く、眠るとひどく寝汗をかいた。
みすみの方は相変わらず元気だった。週末見舞いに来ると会社のあれこれや、部屋探しの進捗状況などを報告する。三か月程度で退院すると言われた彼女は、新居探しに俄然、力を入れていた。
「やっぱり、もうあの二階に戻らない方がいいよ。おとうさんたちは全然かまわないって言ってくれてるけど、あそこを出るいいチャンスだと思う」
みすみはそう言っていた。それは私も同意見だった。ただ現状ではとても三か月で退院なんて無理な相談だった。
彼女の話は大体がメールですでに知っている内容なので、調子が悪いときは上の空になった。
みすみといえども、健康に暮らしている人間を目の当たりにすると私の気持ちはこわばった。
「僕の結核は本当によくなるんですか? いまの治療法を信じていいんですか」
すでに担当医にはしばしば詰め寄っていたが、そのたびに彼は、
「心配せずに気長に治療していきましょう。不安になったり取り越し苦労をするのは、むしろ治療の妨げになりますからね」
まるで子供をあやすようないい加減なセリフを吐くだけだった。
このまま死んでしまうような気がした。
それならばそれでもいいような気がした。
一月下旬、そうした厭世気分をさらに高じさせてしまう決定的な出来事があった。
K社の文芸誌の二月号に新人賞の予選通過者リストが発表されたのだ。
私の名前は載っていた。が、細字だった。細字は一次選考止まりということだ。
二次選考に残った作者と作品名は太文字で、そこからさらに最終候補作の数編が選ばれるのだった。
予選通過者のリストが掲載される時期には最終候補が決まっているのが通例だった。S社の場合は、最終候補に残ると連絡が来たので、その伝でいけば年末か年明けあたりにはK社からの連絡が入っていなければおかしい。
薄々落選だろうと想像はしていたが、それでも現実を突き付けられたショックは計り知れなかった。
こうして病に倒れ、新作が書けなくなったいまとなってはK社の新人賞がまさしく最後の頼みの綱だった。その綱がかくも簡単に千切れてしまっては、もはや絶望する以外に取るべき道がなかった。
私は文字通り、絶望した。
最終どころか二次選考にも引っかからなかったということは、佐伯さんの読み違いだったのかもしれないと思った。ゲラにまでなっていた『快挙』を全否定したあの編集長の判断の方が正しかったのではなのいか? そうでなくてはさすがに太字くらいにはなるだろう。
みすみの楽観的な観測をいつも戒めていたが、内心では、私も最終候補作には絶対に残ると確信していた。K社の文芸誌よりもさらに格上のS社の文芸誌で掲載が内定していたのだ。その作品が選ばれないはずがないと楽観していた。
それゆえに絶望は深かった。
これですべての足がかりが消えた。
自分と世界とを繋いでいた細いロープが腐って落ちたのだった。
もう、本当にどうでもいいような気がした。
いっそすがすがしいくらいだ、と思うときもあった。幸運なことに不治の結核にもおかされている。このまま肺の結核菌が減少していかなければ早晩、肺の細胞は溶け始め、いずれ死に至る。
死ぬにはちょうどいい病気のような気がした。結核が猖獗を極めていた時代、数えきれないほどの作家、画家、音楽家がこの病に倒れた。死に方くらいは、そうした先達のひそみに倣いたいものではないか……。
そんなふうに超然とうそぶいて一日を心静かに過ごせる日も確かにあったのだ。
だが、一方で、死の恐怖にさいなまれ、こんなみじめな姿のままに死んでしまっては、それこそ死んでも死にきれないと圧倒的焦燥に駆り立てられる一日もあった。
落選の報に接してからは、みすみの顔を見るのがイヤになってしまった。
例によって彼女は、
「考えてみたら、いま受賞してもヒックン、どうしようもないもんね。きっと神様がヒックンにとって一番いいタイミングで賞をくれるんだよ。とにかく病気を治して元気になることに集中しろってことなんだよ」
どこまでもプラス思考を押しつけてくる。
「気休めを言うな!」
微熱がずっとつづいていた時期だったこともあり、ある日、私は思わずみすみを怒鳴りつけた。
ふだんなら「ごめんなさい」とすぐに謝るみすみが、なぜかこのときは何も言わずに花瓶を持って病室を出て行った。きれいな水仙を持って来てくれていた。
私は彼女を追いかけて洗面所まで行こうと身体を起こした。
床に降りてみると、しかし、膝が震えてまともに立てない。まして歩けない。
愕然とした。
結局、活けた花を持って戻って来たみすみとは無言のまま、それからほどなく彼女は「また来るね」とも言わずに帰って行った。
もちろんメールで詫びは送った。その日、本当は新しく借りるアパートの写真を見せに来たのだ。落選で落ち込んでいる私を励ますためだったのだろう。彼女はいそいで引越し先を決めてきた。部屋の内覧を済ませ、写真をたくさん撮って、そのプリントを持って来てくれていた。それが、のっけに私が癇癪を起こしたことで、写真をバッグから取り出すこともできずに帰ってしまった。
みすみは昼の仕事のほかに夜のアルバイトもやっているようだった。
私には絶対に打ち明けなかったが、どことない雰囲気の変化でぴんと来ていた。メールで情報を伝えてくる新居の家賃が、年明けとともに一気に跳ね上がっていた。
<こんな高い部屋、無理だろう?>
私が返信すると、
<大丈夫、お給料も上がったし、貯金もちょっとはあるからね。>
と打ち返してきた。そんなはずはなかった。
すでに三十二歳になっていたが、みすみは相変わらずきれいだった。四、五歳はサバを読めるだろうから、三宮の繁華街でホステスをするくらい訳がないだろう。何しろ、かつては銀座でばりばり稼いでいた人なのだ。
これじゃあ安手のメロドラマだな、と我が身を嗤うしかなかった。
結婚から五年が過ぎ、私たち夫婦の関係はすっかり変質してしまったと認めざるを得なかった。
11 雪江
三月になっても肺の影の大きさに変化は見えなかった。
高熱が出ることは少なくなったが、一日中頭痛に悩まされた。その頭痛のせいで読書もテレビを観ることもできなかった。ことにテレビはブラウン管が明るくなるだけでまぶしさを感じ、目の奥の痛みを誘った。ひどいときは窓の光も病室の明かりもつらかった。
入院期間は予定の三か月をとっくに過ぎて五か月目に入っていた。
治療といっても、四種類の抗結核薬を毎日欠かさず飲むだけだ。
何もすることはないし、できることもない。死んだ魚のようにベッドの上で日がな一日ぼーっとしているだけだった。ことに夜が苦しかった。寝つけないままに夜明けを迎え、日が射してくると、今度は頭痛で眠れなくなる。日中、まどろむように過ごし、また眠れぬ夜がやって来る。その繰り返しだった。
みすみの見舞いもたいがい断るようになった。
彼女は二月の終わりに元町のマンションに一人で引っ越していた。
中林酒店にあった私たちの荷物はたかが知れていたが、実家で共用していた冷蔵庫や洗濯機、テレビやエアコンといった家電製品は新しく購入する必要があった。費用をどうやって捻出したのか分からないが、みすみは新居にそれらをきっちりと取り揃えたようだった。
部屋は2LDK。十畳ほどのリビングを挟んで八畳と六畳のフローリングの部屋がある。築浅のかなりちゃんとしたマンションだった。
「ヒックンの仕事場もいままでと違って日当たりがいいし、それに元町の商店街がすぐそこだから賑やかで楽しいところだよ」
一度、来たときに写真を見せてくれながら彼女は言った。
場所が場所で、しかも六階建ての最上階とあって、家賃は十万をかなり上回っているようだった。
「こんなところ、どうやって家賃を払うんだよ」
と訊ねると、
「事務所が終わってから、もう一つバイトしてるから全然オッケーだよ」
ようやくみすみは夜の仕事のことを認めたのだった。
「またクラブ勤めに逆戻りか……」
私が皮肉っぽく言うと、
「小さなスナックだよ。事務所の同僚のおかあさんが開いてて、人手が足りないからやってみないかって誘われただけ。彼女もときどき手伝ってるようなお店」
みすみはそう説明したが、とても本当だとは思えなかった。だが、私はそれ以上は何も言わなかった。
みすみが滅多に顔を見せなくなって一か月ほど過ぎた三月末、意外な面会者がやって来た。
従妹の雪江だった。最後に会ったのは私たちが東京を離れる直前だった。彼女はその翌年、東京で結婚した。都内での結婚式にはみすみだけが出席した。そんな雪江がいきなり訪ねて来たので面食らった。実家に急用でもあったのかと思ったが、聞いてみると、離婚したのだという。
「そうなんだ」
「そうなのよ」
雪江の方はすっかり吹っ切れたふうだった。先週、東京の住まいを畳んで、神戸に戻って来たという。一年半にも満たない結婚生活だったらしい。
「おにいちゃんが入院してるなんて全然知らなかったの。秋江も何にも言ってくれないし。三、四日前にみすみちゃんに聞いて知ったんだよ。びっくりだよ」
秋江というのは、看護師をやっている雪江の妹の名前だった。
偶然か、雪江が来る前の日から何となく体調がよかった。不意に頭痛が薄くなり、窓の光がまぶしくなくなった。病室の窓から見える中庭には桜があった。つぼみに混じってちらほら花が開いていた。そんなことにも初めて気づいたのだった。
「おにいちゃん」といっても、みすみより二つ年少の雪江は私とは同い年だった。十一月生まれの彼女は当時三十歳。四月生まれの私はあと一月足らずで三十一になるところだった。
それからはしょっちゅう雪江が見舞いに来てくれた。
北区の実家に身を寄せて離婚の疲れを癒しているだけだから、時間は有り余るほどあるのだと彼女は笑った。
「出戻りだしね、正直言うと、この病院くらいしか行くとこないのよ」
多いときは二日に一度くらいのペースだったが、これも偶然なのか、彼女がやって来るようになって体調は徐々に改善し始めた。薄紙をはぐようにという表現そのままの回復ぶりだったが、それでも昨日よりも今日、今日よりも明日と、一歩一歩階段を上っていく感触があった。
四月二十一日火曜日。この日は私の三十一歳の誕生日だった。
平日とあってみすみは見舞いに来ることができなかった。そのかわり、十九日の日曜日にやって来て、ささやかな誕生祝をデイルームでやった。
あのとき、みすみは何かプレゼントをくれただろうか? いまとなってはちっとも憶(おぼ)えていない。デイルームでケーキを食べたような記憶はあったが、それもいま一つ定かではなかった。
私が、そしてそれ以上にみすみが、もう相手への興味を失っていた。
誕生日当日の昼間、雪江が訪ねて来た。
病室に入って来るなり、
「さあ出かけましょう」
と言う。
雪江とみすみはよく似ていた。二人は母方の従姉妹同士だったが、まるで姉妹のようだった。みすみの方が上背はずっとあった。彼女の身長は父親の泰蔵譲りだったのだ。みすみの母親の光恵はどちらかといえば小柄だったそうで、そういう点では、実子のみすみよりも姪の雪江の方が光恵に似ているくらいだった。
たしかに光恵の若い頃の写真を見ると、雪江は彼女にそっくりだった。
いきなり「出かけましょう」と言われて私はぽかんとしていた。
「先生に外出許可をいただいているの。さあ、おにいちゃん、着替えてちょうだい」
「外出許可?」
そう言われても要領を得ない。
「先週から、二十一日はおにいちゃんの誕生日なので外に連れ出したいんですけどってお願いしてたの。そしたらこの前来た日に、三時までだったらいいでしょうって先生が言ってくれたのよ」
外に出ると聞いて、私はひどく憂鬱になった。この半年、中庭に降りるくらいで病院の外には一歩も出ていなかった。それどころか院内の廊下を行ったり来たりするようになったのも、ここ半月くらいのことだった。急に外出なんてとてもじゃないが無理だ。
「心配しないで。レンタカー借りてきたから。まずはドライブ。とにかくちゃんと太陽の光を浴びましょう」
こちらの気持ちを察してか、雪江が言った。
レンタカーと聞いて、一瞬で気持ちが裏返った。太陽の光というよりは、風を浴びたいと思ったのだ。車の窓を全開にして春風を感じてみたい。
庭の桜はとっくに散って、花冷えの時期も終わり、うららかな晴天の日々がつづいていた。
病院の階段を下りて駐車場まで歩いた。コンクリートの道を一歩踏みしめるたびに膝が心もとなく震える。
地に足がついていないという感覚をまざまざと味わった。このまま死んだっていい、などと気安く考えていたが、こんなありさまで俺はこの先一体どうなってしまうのだろうと胸底がひび割れるような不安をおぼえた。
なんとか駐車場までたどり着いて、雪江が近寄っていく車を見て驚いた。「わ」ナンバーだからきっとこれなのだろう。
「こんなの借りてきたの」
「そうだよ。久しぶりの外出でしょう。豪勢にやらないとね」
車はセルシオだった。むろんセルシオなんて一度も乗ったことがない。
雪江の運転で山側から海側へと下って行った。牧野高原病院は名前のごとく東は六甲山系に連なる丘の上にある。
セルシオの乗り心地はよかった。ためしに窓を閉め切ってみると車内はほとんど無音になる。その静粛性に感心した。
車窓から吹き込んでくる風はしばらく当たっていると想像以上に身体を冷やしたので、私は助手席のシートを倒して、フロントガラス越しの陽光を全身に浴びた。
「気持ちいいでしょう」
「うん」
雪江の運転はなかなか上手だった。
一般道をのんびりと走り、垂水区に入る。垂水は須磨の西隣だった。両区とも美しい海岸線に恵まれた町だ。
国道二号線にぶつかったところで右に進路を取る。
垂水方面へと向かっていることで雪江がどこを目指しているのか分かった気がした。
さらに二十分ほど走り、「舞子公園前」の交差点で雪江は車を公園内へと乗り入れた。広い駐車場にセルシオをとめた。
真っ青な空を背景に巨大な吊り橋が目の前にあった。
私は車を降りる前からその威容に息を吞んでいた。
半月ほど前の四月五日は、この明石海峡大橋オープニングのニュースで地元紙やテレビはもちきりだった。十年の歳月と五千億円の巨費を投じて作られた吊り橋は世界最長を誇り、主塔の高さは三百メートル近くにも達した。東京スカイツリーが完成するまでは、東京タワーに次ぐ国内二位の高さの構造物だった。
震災で地盤がずれ、完成間近の橋の全長が一メートル伸びるという思わぬ事態も出来(しゅったい)したものの、震源のほぼ真上でありながら橋自体はびくともせず、日本の橋梁建設技術の水準の高さを世界に見せつけた。
セルシオから降りて、橋の姿に目を奪われながら目と鼻の先に橋脚が見えるあたりまで歩いて行った。病院を出たときの足元の不確かさはない。というより巨大な吊り橋に吸い寄せられて、歩行に意識がまったくいかなかった。
顎を上げ、橋を凝視する。
私はどうしようもなく感動していた。
理由は分からない。ただ、胸に押し寄せてくる巨大な感情のかたまりがあった。
三年前に神戸にやって来て以来、建築途中の明石海峡大橋を見ることは一度もなかった。須磨より西には行かなかった。意図したわけではなく、機会がなかっただけだった。橋を見るならば完成してからにしようとみすみと話したことはあった。
その完成した橋を見て、これほど感激するとは思ってもいなかった。
まったく奇妙な、笑い話のような話だが、私は車を降りて目の前にそびえたつ巨大な明石海峡大橋と対峙した瞬間、生きていてよかったと本気で思った。
これで自分は生きていける、そう思った。
いつの間にか、隣に雪江が立っていた。
「おにいちゃん」
と呼ばれ、声の方へと視線を向けた。彼女はじっと橋を見つめている。その横顔はみすみによく似ていた。
「絶対に治るから。もう大丈夫だよ」
雪江は強い口調で言った。
12 尾行
一九九八年(平成十年)六月十八日木曜日。
私はようやく退院した。
梅雨が始まっていた。その日も雨だった。
雨の中を病院前のバス停まで歩いた。道々何度か病院の方を私は振り返った。
病室には入院仲間がまだ三人残っている。二人は私が入院して四か月以上経ってから入って来た患者だった。残りの一人は私より二か月前に入った先輩だった。四十手前の、五歳になる娘さんがいる人だった。仕事は保険会社のセールスマン。塩谷という名前で、大のトラキチで、初めて会ったときは小太りの陽気な人だった。小柄な色白の奥さんが週末になると必ず見舞いに来ていた。菜々子ちゃんというお嬢さんは病院の規定で来ることができない。毎週、奥さんが持ってくる写真で娘の成長を確かめるしかなかった。塩谷さんは次の面会まで一番新しい写真を飽かず眺めていた。
その塩谷さんが、私の退院に一番ショックを受けていた。初対面のときに比較すれば、彼は見る影もないほどにやつれてしまった。
部屋を出るときそれぞれに挨拶したが、塩谷さんだけは「おめでとうございます」とは言わずに、ベッドの縁に腰かけ、俯いたまま黙って手を振ってくれた。
塩谷さんのひっそりとした姿が雨の中を歩きながらずっと脳裏に浮かんでいた。
傘を手に、細い歩道をみすみは先に立ってゆっくりと歩く。私がたびたび後ろを振り返っているのには気づいていないようだった。
塩谷さんが無事に退院できるかどうか五分五分という気がしていた。実際は、もう少し厳しいような気もした。
塩谷さんのことを、自分は一体いつ頃までこうして思い出すのだろうか? 思い出すことができるのだろうか?
ずっとそんなことを考えながら歩いた。
塩谷さんが無事に退院できたとしても、もしくはあのまま病状を悪化させて亡くなってしまったとしても、私にはもはや知るすべがなかった。
彼は私の人生にとって、いかなる意味を持つ存在であったのか?
七か月余りを同じ病室で共に過ごした。なおりの悪い私と塩谷さんは、入れ替わっていく同室のあとの二人とは異質な存在だった。大した交流もなかったが、それでも奇妙な連帯感のようなものが私たちのあいだには芽生えていた。
それが、今日、こうして完全に袂を分かった。死別せずとももう永久に会うことはないだろう。
前を歩くみすみの背中を見つめながら、私は深い孤独を感じた。
この妻とあの塩谷さんとのあいだに果たしていかほどの隔たりがあるというのだろうか?
退院しても半年ほどは抗結核薬を飲みつづけなくてはならなかった。体調もすぐに元通りになるというわけではない。
初めて見る元町の部屋はいままで住んだ部屋とは比べられないほど立派だった。長いあいだずっと病室に引き籠っていた身には尚更にそう感じられた。
仕事部屋として与えられた六畳間に入って茫然とした心地になった。
そこには須磨のアパートで使っていた事務机が置かれ、愛用のワードプロセッサーが載っていた。新しい本棚と新しいソファベッドも配置されていた。
フローリングの床も壁もぴかぴかで、南向きの窓からは雨にもかかわらず薄日が射し込んでいる。
中林酒店の二階とも、まして月島のしもたやの二階とも全然違う。
心機一転、何もかも最初に戻ってやり直せ、と叱咤激励されている気がした。いたたまれなかった。
もう僕にはそんな力なんてこれっぽっちも残っちゃいないんです――そう呟いて、うなだれてしまいそうになる部屋だった。
「お薬が終わるまではのんびりしようね。先生も絶対に無理はしないようにって言ってたんだし」
みすみは同じ言葉を繰り返す。他に言うべきことを見つけられないみたいに……。
月曜日から金曜日までは貿易協会とスナック勤めをかけもちし、土曜日は夕方近くに東門街のスナックに出勤する。みすみとは同居しながらも一緒にいる時間はほとんどなかった。日曜日はさすがに休みだが、昼過ぎまで寝ていて、午後からは週に一度の買い物に出かける。二人分の毎日の弁当のおかずや出勤前に用意していってくれる私の夕食のための食材をたんまり仕入れてきて、新品の大型冷蔵庫におさめる。買い物、掃除、洗濯、それに一週間分の弁当の下拵えで彼女の日曜日はあっという間に過ぎ去った。
みすみが働きに出ているあいだ、私はテレビを観ることで大半の時間を潰した。
元町の商店街まで五分もかからない場所にマンションがあったので、一日に一度は商店街をぶらぶらと歩くようにしていた。
賑やかな商店街は、最初は気おくれを誘った。人込みに混じって百メートルも歩かないうちに立ちくらみがした。通りの左右には喫茶店のたぐいが何軒もあったが、どこも当時は禁煙席がなかったので、コーヒーで一服するわけにもいかなかった。
昼食は弁当だったし、お茶も飲めないとなると、長い商店街のアーケードを行ったり来たりする以外にすることがない。
そのうち海文堂という品揃えのいい書店を見つけて、散歩に飽きたらそこに入ってあちこち書棚を巡ってひまつぶしをするようになった。
小説を書く気持ちなどちっとも湧いてこなかった。
微熱が数日つづくこともあったし、頭が痛い日もあった。まだまだ本復にはほど遠いのだから仕方がないと自分に言い訳していたが、内心では、元気になったときの方が実はもっとつらいのだろうと想像していた。
あの誕生日以来、退院後もたまに雪江とは会っていた。
さすがに部屋に上げるわけには行かないので、商店街の甘味屋で待ち合わせたり、あとは雪江の車でドライブしたりした。彼女は実家を出て岡本のあたりに部屋を借りてくれていた。自立と同時に中古のゴルフを一台買った。そのゴルフであちこち出かけた。金回りは悪くなさそうだった。
「当分は働かなくてもやっていけるくらいは貰ったから」
と言っていた。
雪江のことはみすみには一切言わなかった。
みすみの方も隠し事をしているのだから御互い様と言うほかはない。
雪江とみすみとがたまに会っているのか、連絡を取り合っているのかも知らなかった。みすみにも雪江にもそのへんのことを確かめたりはしなかった。
二人きりの生活になってもみすみとの肉体関係は復活しなかった。
セックスが治療に悪影響を及ぼすというデータはない。排菌も止まっているから相手にうつす可能性もない。ただ、そうはいっても感染者の方から積極的に出るのは心理的にむずかしかった。みすみにその弱みを上手に利用されている気がした。
私が働かないのは静養のためであり、セックスをしないのもまた静養のためだった。静養が私の生活のすべてなのだとみすみは押しつけがましかった。
その種の態度はいかにも良妻風だったが、みすみの本来の性格を考えると非常に違和感があった。
みすみは決して頭脳明晰な人ではないが、ざっくりした気風のいいおんなだった。融通無碍、臨機応変、感覚的でやや直情型、そして何より、自分の直感に信を置いていた。そうした点ではいかにも女性らしい女性だった。
女性と男性の決定的な差異は論理性の有無だと私は思っている。
女性は論理に従うことはあっても論理を信ずることは決してない。女性にとっての神はあくまでも自分自身なのだ。常に外部に神を求めざるを得ない男性よりも彼女たちがいつも強くてたくましいのはまさしくそのためだった。
彼女は本当の自分自身を守るために、夫である私を静養という“論理”で縛ろうとしていた。そして、その本当の自分自身の方は私とは別の相手に対して普段通り直感的にふるまっているに違いなかった。
去年の八月から一度も身体を結んでいなかった。
丸一年が過ぎた八月一日土曜日。
かねて迷っていたことを実行しようと決めた。
みすみは午後四時過ぎに部屋を出て行った。東門街のスナック「ミチル」に出勤するためだ。だが、彼女はそうやって店に出る日もあれば、出ない日もあった。私には仕事だと言って出かけて、店以外の場所に直行したり、九時頃に店を早退して、それからそちらに回ることもあった。
退院する半月ほど前、
「みすみちゃんにも男の人がいると思う」
雪江にいきなり告げられた。
言われた瞬間は驚いたが、直後には冷静に受け止めていた。たまにやって来るみすみを見ていると、私から心が離れつつあるのが感じられた。長期間、別々に暮らし、しかも生活はみすみ一人の力で賄っているのだから、独立の気概が心の大勢を占めても不思議ではなかった。
「知りたくないの?」
無言でいると雪江が訝しげにこちらを見た。私は黙ったままだった。
「明石公園で偶然見かけちゃったのよ。あそこは大きな池があって、池の周囲にはたくさん桜の木があって、花の時期はそれはとても見事なんだけど、その明石公園の池のほとりの芝生でね、みすみちゃんが男の人と小さな女の子と三人でビニールシートに座って、お弁当を食べてたの」
「いつの話?」
私は訊ねた。桜の季節だとすれば二か月近くも前のことになる。
「先週の土曜日」
雪江は言った。
ふたたび一緒に暮らすようになって、私はみすみの挙動を子細に観察した。一週間も経つと、雪江の言っていたことに間違いはあるまいと確信した。
退院から十日目にあたる六月二十七日土曜日、私は、みすみを尾行した。やはり午後四時頃に彼女を送り出したあと、私もすぐに部屋を出てあとをつけた。みすみは「ミチル」のある東門街へとは向かわず、鯉川筋を山側へとぐんぐん上がって行った。
JR元町駅を過ぎ、下山手通りにぶつかったところで左折する。兵庫県庁の前まで歩き、彼女は道路を挟んで庁舎本館のはす向かいに建っている大きなマンションの中へと消えていった。
二週間後の土曜日、七月十一日も尾行した。
みすみは今回は「ミチル」に入って行ったが、近くのコンビニで見張っていると九時過ぎに店から出てきた。東門街の酒屋でワインを一本買って、彼女はいそいそと前回と同じマンションの方角へと歩き去って行ったのだった。帰宅は十二時を回ってからで、ずいぶんと酔っていた。
尾行三度目となる八月一日は、みすみが出て、二時間ほど経ってから私は出発した。
三宮まで歩き、JR三ノ宮駅のそばにあったレンタカー屋で車を借りた。久しぶりの運転だった。
県庁前の件のマンションの向かい方に車を停めたのは午後七時前だった。
真夏とあってまだ外は明るい。夕方になっても気温は三十度を超えていた。クーラー全開の車内でじっとマンションの玄関を見張った。
十時を回ってもみすみはやって来なかった。ということは今夜は来ないのか、それとも家を出たあと店には寄らずに直接マンションに入ったのか。
十一時過ぎ、みすみが出てきた。倒したシートに背中を張り付けていた私は慌てて上体を起こす。
みすみだけではなかった。つづいて背の高い男性と、その男性に手を引かれた女の子が一緒に自動ドアから出てくる。
玄関前の路上に下りると、みすみが女の子の空いた方の手を握った。三人並んで左方向に歩き始める。
私はゆっくりと車を発進させ、反対車線から三人を追いかけた。
狙い通りの展開だった。子供までついてくるとは思わなかったが、男は見送りに出てくるだろうと踏んでいた。
いま初めて、みすみの相手をこの目にしていた。
事実を事実と決定づけるのが怖くて、ここまでのことはせずに済ませてきた。相手の男を確認してしまえば後戻りができなくなる。現在のようなあいまいな関係が長続きするはずもなかったが、かといって事態を突き詰めてしまえば夫婦関係は必然的に破綻をきたすだろう。
私には自分がどうしたいのかが分からなかった。
だが、結局は分からないままに、その瞬間を迎えてしまった。
信じがたい光景だった。
ああして、仲のいい家族のように歩いている三人の一人がみすみであるのが信じられない。
これから三十分もすれば、彼女は私のいる部屋へ何食わぬ顔で戻って来て、
「ただいま。今夜はひまだった。暑くなるとやっぱり土曜日は駄目だね。お客さん来ないもん」
などと言いながら、冷蔵庫から出した冷たい麦茶か何かを私の目の前で飲み干してみせるのだ。
そのとき、彼女はすっかり騙されている哀れな夫の姿を見ながら、一体どんな気持ちになるのだろうか?
数十メートルほど先にあったコンビニの前で父子とみすみは立ち止まった。
男が女の子を抱き上げる。みすみは彼女の頭を撫で、手を振ってから一人で歩き始める。男と娘は去っていく彼女の後姿をしばらく見送っていた。
みすみは一度も振り返らなかった。
男は娘を下ろすと、また手をつないだ。一緒にコンビニの中へと入っていった。
私は車から降り、行き交う車のほとんどない道路を急いで渡った。目の前のコンビニに飛び込む。
二人はすぐに見つかった。父親の方は上背がある。百八十センチ近いだろう。年齢は四十くらいか。女の子の方の年齢はよく分からなかった。四、五歳といったところか。
私は雑誌コーナーで漫画雑誌を手にしつつ二人を見ていた。
そのうちパンやお菓子を持ってレジに向かった。
支払いを済ませて出ていく彼らを急いで追いかけた。十メートルほどの距離を保ちながら後ろを歩く。女の子はつかんだ父親の手を揺らしながら何か歌を唄っていた。
マンションの玄関に到着したときには真後ろにつけていた。
オートロックの内扉を開けて彼らがロビースペースに入っていく。一緒にその自動ドアをくぐった。
「こんばんはー」
私の方から声をかける。
「こんばんはー」
男が返事をした。
そのまま三人で同じエレベーターに乗った。女の子が三階のボタンを押すのを見て、私は「四階を押して貰っていいですか」と頼んだ。笑顔になって彼女は4の数字を押してくれた。
エレベーターを降りると非常階段を使ってダッシュで三階に下りた。非常階段の扉を開けてそっと顔を出す。左右振り分けの長い廊下の右奥のドアにちょうど二人の背中が吸い込まれるところだった。
しばし金属製の扉の内側で待機してから廊下に出た。足音を消して右奥のドアの前まで歩く。
壁の表札を見る。
「308号 布川」
と記されていた。
13 夫婦とは なんと佳いもの 向い風
二日後の月曜日、みすみより先に部屋を出た。
「日中は暑くてとても歩けないから、今日からは早朝に散歩することにしたよ」
寝起きのみすみに言うと、
「それ、いいかもね」
まったく疑う気配はなかった。
貿易協会の始業は九時からだから、みすみはいつも八時半に家を出る。それでは間に合わなかった。
布川の住むマンションの前に到着したのは午前六時過ぎだった。
すでに真夏の陽射しが街路に照りつけ、気温はとっくに三十度を超えていそうだ。
玄関ドアをくぐり、オートロックの内扉の近くにいると勤務先へと向かう人たちが次々と出てくる。私は「おはようございまーす」と明るく声をかけ、彼らとすれ違いながらロビースペースに入った。
ロビーはかなり広めで、応接セットが二つ置かれている。エレベーターから遠い方のソファに陣取り、布川が出てくるのを待った。
七時過ぎ、娘を連れたスーツ姿の彼がエレベーターから降りてきた。
背後に私の目があることには気づいた様子もなく、彼らは玄関を出て行った。女の子がさかんに何かしゃべりつづけている。
私はゆっくりとソファから立ち上がり、二人のあとを追う。
子供連れだから歩く速度が遅い。距離を取って尾行するにはうってつけだった。
昨日、近辺にある保育園の場所は地図で調べておいた。三か所あったが、一番近いのは布川のマンションから二百メートルに満たないところにある。父子はその保育園の方向へと歩いて行く。
子供を預けて保育園を出てきた布川をさらに尾行した。
上背があるので人込みでも見失うおそれがない。全体に痩せてはいるが、肩幅があり、均斉がとれていた。学生時代はバスケかバレーでもやっていたような体型だ。薄いバッグを手に、姿勢正しく悠然と歩いていた。背広姿が板についている。明るい光の中で見ると年齢は四十を幾つか超えているような気がした。相応の落ち着きが感じられる。
元町駅に入った。急いで券売機で切符を買い、定期を使って改札を抜けた彼を追いかける。どこまで行くのか分からないので、とりあえず大阪までの切符にしておいた。
だが、布川は下りのホームへと上がっていく。勤務先は大阪方面ではないようだ。
明石という地名がふと思い浮かんだ。布川父子とみすみが一緒にいるのを明石公園で見たと雪江は言っていた。
向かいの上りホームは通勤客でごった返していたが下り線はさほどの混雑ではなかった。
五分もしないうちに姫路行きの電車がホームに滑り込んでくる。
用意しておいたサングラスをかけ、彼のあとにつづいて電車に乗り込んだ。
車内は空いていた。布川は右のシートに腰を下ろした。私はその向かい側のシートに座る。真正面から彼を観察した。
膝に置いたバッグから何やら書類を取り出して読んでいる。いかにも物静かなたたずまいだ。次の神戸駅を過ぎると書類をしまった。あとはじっと目をつぶっている。目の前にいる私の視線には気づいていないようだった。
二駅目の兵庫駅に着くと、彼は立ち上がった。
こんな近くに職場があるのだろうか。ちょっと意外な気がする。
ホームに下り立った布川は一度大きく伸びをした。首を何度か回したあと階段へと向かう。足元に小さなペットボトルが転がっていた。身体を曲げ、それをひょいとつかんで自動販売機の横のごみ入れに投げ捨てる。一連の動作がとてもさりげなく自然だった。
電車の中で顔を凝視しながら、誰かに似ているとずっと思っていた。
その軽い身ごなしを目にして思い当たった。
布川は、潮崎哲也によく似ていた。
みすみがかつてファンだった、あの西武ライオンズの潮崎哲也だ。
十時前には自宅に帰りついた。みすみはもういない。
仕事部屋のソファベッドに寝転がって窓からの光をぼんやりと見つめる。
とても静かだった。
布川とみすみとはどうやって知り合ったのだろうか?
別の女が自宅に出入りしているのだから、布川に妻はいないのだろう。離婚か死別か。
保育園の送り迎えを考えると、二人が「ミチル」の客と従業員として出会ったとも思えなかった。
貿易協会の仕事を通じて面識を得たのではないか。
JR兵庫駅で降りた布川は、阪神高速三号線の下をくぐって海側へとどんどん歩いて行った。そして、川崎重工兵庫工場の正門に達すると、社員証らしきものを守衛に提示して、その奥へと消えて行った。
川重の兵庫工場は新幹線の製造基地として知られている。むろん、他にもさまざまな電車、貨車、機関車を作っている。納入先は世界各国に広がっているだろう。布川が製品の輸出業務に携わっていたとすれば、みすみの勤める海外貿易協会とも関わりがあるはずだ。
事務員のみすみと布川が何らかの形で知り合う可能性だって充分にあるのではないか。
幾ら考えても正確な答えが見つかるはずもなかった。
はっきりとした形にならない思いが、頭の中を深く、浅く駆け巡っている。
もう自分とみすみとは駄目なのだろうか?
こんな有様になってしまったいま、自分たち夫婦にやり直すすべなどあるのだろうか。
自分も、そしてみすみもそもそもそんなことを望んでいるのだろうか。
みすみは、待っているのかもしれない。病身の夫を放り出すわけにもいかず、ただじっと本復する日を待っているのかもしれない。
一昨日の深夜、布川の娘の手を取って歩いていたみすみの姿が脳裏によみがえった。コンビニの前で布川に抱き上げられた女の子の頭を撫でるその仕草が思い出された。
二人目の子を失って三年七か月が過ぎていた。以来、彼女は一度も妊娠することはなかった。震災があり、私の病気があったのだから子供どころではなかったという一面はある。だが、みすみもすでに三十三歳だ。妊娠の難しい体質だけに焦りは募っているだろう。
女であるかぎり子供は産みたいに違いない。
私のような夫に愛想尽かしをするのは、考えてみれば当然だった。家計を支える力もなく、子種を提供する能力にも欠けている。結婚を継続するだけの価値がこれっぽっちもない。
みすみを責める資格が私にはなかった。
裏切りを幾ら責めてみたところで、彼女の気持ちがどんどん布川の側に傾いていくだけのことだ。
彼女を責め立てるのも、自分の方から詰め寄るのもやめておこう。
たったいまみすみに放り出されたら、私はどうやって生きていけばいいか分からない。
最低でも退院後半年は抗結核薬を服用しなくてはならない。再発の可能性もゼロではない。依然一人で生活できるほどの体力は備わっていなかった。
そして何よりも、みすみをまだ愛していた。
彼女の行為を許せるとは到底思えなかったが、その憎しみによって、これまでの愛情を完璧に否定できる気はとてもしなかった。
喜びに満ちた愛もあれば、悲しみに彩られた愛もある。賑やかな愛もあればさみしい愛だってあるのだろう。
たとえ悲しくてさみしい愛だったとしても、それはそれで立派な愛なのかもしれない。
盆休みに久々に須磨に帰った。
泰蔵や幸子と会うのは、入院以降初めてだった。
「元気そうじゃないか」
泰蔵は言った。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「俊彦君が謝ることとちゃうやろ」
義父は一笑した。
一泊した翌日、幸子とみすみは新開地に買い物に出かけた。午前中だけで店を閉めた泰蔵と二人きりでそうめんを茹でて食べた。みょうがと大葉を細かくきざんでつゆにいれた。
「みすみに男がいるようなんです」
そうめんをすすりながら言った。どうしてそんなことを口にしたのか自分でもよく分からなかった。何の感情の波立ちもないままに告げていた。
泰蔵は箸を止めて、
「ほんまか」
ぼそりと言う。
「はい。相手の名前も顔も分かっています」
泰蔵はしばらく無言だった。
「きみは別れたいんか」
と訊いてくる。
「よく分かりません」
そして、
「おとうさん、一つどうしても教えて貰いたいことがあるんですが」
と切り出した。今回、義父と二人きりになれたら是非確かめようと思っていたことがあった。
「なんや」
「みすみはどうして高校を中退までして、この家を出て行ったんですか。本人はおかあさんと折合いが悪かったからだと言っていますが、僕にはとてもそうは思えないんです」
「そうやろな」
泰蔵はあっさりと認める。
「あれが家出したんは、全部わしのせいや」
私は黙って次の言葉を待った。
「きみは雪江は知っとるな」
そこで泰蔵の口から意外な名前が飛び出した。どきりとした。
「はい」
「あの子とわしが関係してるんをみすみに知られてしもうたんや。しかも、この店の二階でそういうことになっとるんを見られてしもうた。最悪や」
私はあまりな話に喉が詰まったようになった。目の前の泰蔵と、よりにもよってあの雪江が男女の関係にあったなどとは信じようにも信じられない。
「ようけ似とるやろ」
泰蔵はさして恥じ入る風もなく淡々と喋りつづける。
「雪江は死んだ女房にそっくりや。幸子と一緒になったあとも、どうしても忘れられへんかった」
遠くを見るような目で泰蔵は言う。
「幸子には気づかれんようにしてたが、まさか、娘に現場を押さえられるとは夢にも思ってへんかったわ」
私は何も感想を口にできない。
「どや、軽蔑したか?」
泰蔵が笑いかけてきた。
私は首を振った。
「みすみに見つかって、雪江は涙ながらにわしに手籠めにされたて言うたんやろな。あれはたいした玉やった。先に誘ってきたんは雪江の方や。ほんまの話や」
それから私たちは長い時間、黙り込んでいた。
ちゃぶ台の上の麦茶のボトルを取って、泰蔵は空になった湯呑に注ぐ。湯呑を持ち上げてゆっくりと一口麦茶をすすった。
「俊彦君」
私は顔を上げて泰蔵を見た。
「きみも、物書きの端くれならよう知ってるはずや。人間の心の中には魔物が棲んどる。あの頃のわしもそうやった。いまのみすみもそうなんやろ。きみの心にかて魔物はおるんや。わしにはきみたち夫婦のことはちっとも分からへん。分からへんが、要はその魔物に負けんようにしてほしい。わしに言えるんは、たった一つ、それきりや」
泰蔵はこちらの胸の内を見透かすような目でそう言った。
もう一泊していくというみすみを置いて、私はその日の午後に元町に戻った。
駅に向かう前に、ひさびさに須磨寺に詣でた。
本堂で合掌したあと、夏の光に洗われた境内を眺めた。
ちょうど一年前、ここでこうしているときに奇妙な風に吹かれた。
風は、ゴーッと音立てて、私の身体を一瞬で冷やしていった。
その晩から高熱が出て、それが結核の始まりだったのだ。
唐門をくぐり急な石段を下りる。源平の庭を右に見ながら参道を歩く。平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面が玉砂利の広い庭に再現されていた。直実に討たれた敦盛はまだ十六歳だったという。
仁王門を過ぎて、いつものように龍華橋のたもとの山本周五郎の文学碑の前に立つ。
「あなた、生きている目的が分りますか」
「目的ですか」
「生活の目的ではなく、生きている目的よ」
生活の目的と生きている目的。いまの自分には、そのどちらもないと思う。
昼間、泰蔵が言っていたセリフが耳朶によみがえってくる。
「要はその魔物に負けんようにしてほしい。わしに言えるんは、それきりや」
それは存外、生きている目的になるのかもしれないという気がした。
周五郎の文学碑を離れて、龍華橋の反対側のたもとにある句碑へと近づいた。
三好兵六という俳人の句碑だった。
――夫婦とは なんと佳いもの 向い風
この一句が石板に刻まれている。
みすみと一緒に初めてここに立ったとき、
「ねえ、これってどういう意味だろうね」
みすみが呟いた。
「向かい風にも二人で立ち向かえば、きっと大丈夫って意味だろう」
私は答えた。
だが、あらためて読んでみれば、全然違っているような気がした。
逆境に放り込まれたときこそ、夫婦の真価が試される。作者はそう言いたかったのではあるまいか。
夫婦とはなんと佳いもの向い風。口ずさんでみる。
夫婦とはなんと佳いもの向い風……。
いつの間にか瞳から涙があふれてきた。
部屋に戻ると、私は、みすみを撮った写真やネガの入った段ボール箱を押入れから引っ張り出して、中身を可燃物用のごみ袋にすべて放り込んだ。「須磨」の物干し場で最初にみすみを見つけたときの写真とネガも入っていた。深夜、元町商店街までその大きな袋を運んで、ごみ置き場に捨ててきた。
次の日の晩、風呂上がりのみすみに声をかけた。
「そろそろ東京に帰ろうか」
タンクトップにショートパンツ姿のみすみが驚いたような顔で私を見る。
「一緒に帰ろうよ」
「でも」
困惑の色が彼女の表情に浮かんでいた。
「そろそろって、いつ?」
「このお盆休みが終わったらすぐ」
みすみは黙ってしまう。
「もしきみが帰りたくないなら、僕は一人で帰る」
そう言って、
「もう決めたんだ」
と付け加えた。
「ねえ、みすみ。僕と一緒に東京に帰ろう」
私はこのときほど誰かの顔を凝視したことはない。
「うん」
ほどなく、みすみは小さく頷いた。
14 地蔵通り商店街
八月の末に私たちは東京に引っ越した。三年ぶりの東京だった。
日本は戦後最悪の不況に陥っていた。七月の参議院選挙で惨敗を喫した橋本首相は退陣し、七月三十日に小渕内閣が誕生した。巷では和歌山で起きた毒入りカレー事件が話題をさらっている。犯人とおぼしき女性の不気味な姿や突飛な言動が、連日ワイドショーで映し出されていた。
私たちが移り住んだのは中野の小さなアパートだった。中野といっても駅から歩けば十五分以上かかる場所で、西武新宿線の沼袋駅の方が近かった。
当座の生活費はみすみの貯金と、それに泰蔵が渡してくれた餞別でまかなった。
東京に帰ることにしたと電話で伝えると、翌日の夜、泰蔵はふらりと元町のマンションを訪ねてきた。
「すっかり世話になったな。せめてものお礼や」
と言って、まとまった金を置いて帰った。
みすみは中野駅前の小料理屋のバイトを見つけてきて、引っ越して五日目にはもう働き始めていた。働くことを苦にしない性格は私も同様だったが、みすみの方がより徹底していた。私はこのアパートでひたすら静養に努めた。
翌一九九九年(平成十一年)の一月十四日。
京都大学の学生、平野啓一郎が芥川賞を受賞したというニュースをNHKで見ている最中、携帯が鳴った。見知らぬ番号だったので普段は出ないのだが、そのときはなぜか通話ボタンを押していた。
耳に飛び込んできたのは十数年ぶりに聴く姉の声だった。
小金井の実家で一人暮らしをしていた母が心筋梗塞で亡くなったという知らせだった。
電話に出ない母を心配して昼過ぎに小金井を訪ねたら、居間で事切れていたらしい。
姉が数年前に結婚して実家を出たことをその連絡で初めて知った。方々の知人、友人に聞き回ってようやく私の携帯番号を入手したと言っていた。
「検死が終わって、おかあさん、たったいま小金井に戻って来たの」
明日が通夜、明後日が葬儀だという。
「へえ、そうなんだ」
私は聞くだけ聞いて、さっさと電話を切った。もちろん通夜にも葬儀にも顔を出すつもりはなかった。
「どうしたの?」
そばにいたみすみに訊かれて、母の死を告げた。
「僕には関係のない人だから」
それだけ言って話を打ち切った。その場は彼女も何も言わなかった。
翌十五日の夕方、みすみが黙って喪服を差し出してきた。佐伯さんが亡くなったときに三宮の紳士服店で慌てて買ったものだった。
「一緒に、おかあさんに会いに行こう」
みすみは言った。
姉はずいぶん変わっていた。小学二年の男の子と五歳の女の子の母親になっていた。夫だと紹介された人は穏やかそうで、言葉遣いの丁寧な人だった。三歳年長の姉は三十四になっていた。
みすみの手を取って、
「私たちは俊彦に何にもしてあげられなかったから、みすみさん、どうかどうかこの子のことをよろしくお願いします」
姉は涙ながらに繰り返していた。
実家での通夜、葬祭場での葬儀ともに出席し、火葬場でみすみと一緒に母の骨を拾った。涙はまったく出なかったものの、無理やりのように葬式に連れて行ってくれたみすみには内心感謝していた。
半年と決めていた中野のアパートでの静養期間が二月いっぱいで終わった。
三月初めに都内の病院で定期検査を受け、抗結核薬の服用をやめていいとのお墨付きも医師から貰った。
私はさっそく仕事を探し始めた。
ちょうどその頃、みすみが働いていた駅前の小料理屋の主人から、江戸川橋近くのおでん屋が空いたのでやってみないかという話が持ち込まれた。その店はかつて雇っていた若い板前が数年前に開いたのだが、今度、彼が実家のある岩手に戻ることになって閉店を余儀なくされたのだという。客筋もよく、繁盛もしていたので誰か信用のできる人がいれば居ぬきで借りてほしいのだが、と主人は相談を受けていたのだった。
「みすみちゃんだったらうってつけだと思ってね、って言われちゃったのよ」
まんざらでもない顔でみすみはアパートに戻って来た。
物件は先方の持ち物なので借りるとなると月々の家賃を支払わなくてはならないが、店をそのまま使えること、店の二階が住居になっていることなどは好条件だった。
「みすみがやりたいんなら思い切って決めようよ」
私は言った。
少しばかり母の遺産が入ることになったので、それを開店資金に回すことができる。
「いいの?」
みすみは顔をほころばせた。
「もちろんさ」
私は請け合った。
仕事探しでまず最初に頼ったのは、札幌にいる大神さんだった。
「東京に戻ったんなら、僕の同期や先輩が渋谷の“本社”に何人かいるから、さっそく頼んでみるよ」
彼の紹介でバラエティ番組のディレクターに会った。神戸時代に書いたラジオ台本を何冊か持って行って渡した。
「子供向けの番組をやっている人間やラジオの連中にもあたってみますよ」
愛想よく応対してはくれたが、しばらく経っても連絡は来なかった。
三月の終わりにS社の今西さんに電話した。佐伯さんの葬儀の際に貰った名刺の番号にかけると別の人が出てきて、「今西はいまは写真誌の編集部です」と言われ、電話を回された。
電話に出た今西さんは、私の声を聞いて、「ああ、中林さん」と懐かしそうな声になった。東京に戻って来たのだと告げると、「だったら会いましょうよ」と向こうから言ってきた。
翌日、神楽坂にあるS社のロビーで会った。彼と会ったのは二年前の佐伯さんの葬儀の折の一度きりだったが、顔を合わせると懐かしかった。髭面に黒縁眼鏡は変わらない。
「あのときは、せっかくのルポの仕事を断ってしまって申し訳ありませんでした」
開口一番、詫びを言った。今西さんは恐縮したような表情になって、
「こちらこそ、ゲラにまでなっていた原稿をお返しするようなことになって、中林さんには本当に申し訳ないことをしたと思っていました。僕はとてもいい作品だと思ったのですが、経緯はあのときお話しした通りでして。詫びなきゃいけないのはこちらの方です」
と返してきた。
写真誌に異動になったのは去年の四月だったようだ。
「もう写真誌ブームもすっかり去って、御承知の通り、部数も全盛期に比べると見る影もありません。正直、あとどれくらい持ちこたえられるかって感じですね」
聞いてみると、今西さんは入社してすぐにいまの写真誌に配属されたのだそうだ。五年近くやって週刊誌に回り、それから文芸畑へ転身したのだという。
「佐伯さんのことはすごく尊敬していました。うちの会社にとってあの人を失ったのは大きな損失だったと思っています。いまの編集長とは週刊誌時代は一緒にやったこともあるんですが、中林さんの作品のことだけでなく、あれこれ対立することが多くて、それで去年、古巣に戻されてしまったんですよ」
今西さんは会社の事情もあけすけに話してくれる。
「ところで、中林さんはあれからどうされていたんですか」
問われるままに『快挙』をボツにされて以降の話をかいつまんで披露した。
すると、今西さんが予想外の言葉を口にした。
「僕の姉も十年前に結核になったんです。五つ上の姉だったんですが、発見が遅れてしまって、結局亡くなりました」
そのお姉さんの話を聞いてすぐに、牧野高原病院で一緒に入院していた塩谷さんの顔を思い浮かべた。
今西さんは「それは中林さん、本当にたいへんでしたね」としきりに繰り返した。そして別れ際に、
「うちの雑誌のアンカーの仕事だったらすぐにお願いできるんですが、そういう仕事はやっぱりやりたくないですよね」
と言ってきたのだ。
「僕でよければ、その仕事、ぜひやらせてくれませんか」
今度こそ、今西さんの誘いに飛びついた。
原稿を書いて稼げるのであればどんな仕事でもやると強く決心していた。
四月半ばに江戸川橋に引っ越した。
地蔵通り商店街というちょっと名の知れた商店街の端っこに店はあった。
商店街を真っ直ぐ飯田橋方面へと進むと、数多くの印刷所や製本所、取次大手のトーハン本社などが建ち並んでいた。その工場街から南に坂道を上っていけば十分も経たないうちに神楽坂の商店街にぶつかった。そういう点では、江戸川橋というより神楽坂に引っ越したと言った方が分かりやすくもあった。
かなり古い民家を改装した店で、築三十年以上の物件だった。
ただし、五年ほど前に店舗部分だけでなく二階にも大幅なリフォームを入れているので外観も部屋の中も見たところ新しかった。二階は六畳の和室が二間に四畳半の洋室がついていた。それに風呂、洗面所、トイレ。台所はなぜか下にしかなかった。
それでも月島の店よりはずいぶんと立派だった。
小さな会社や印刷所、工場がひしめいている町のまっただ中で、店の立地としても申し分なかった。
それにもう一つ。神楽坂駅のすぐそばにあるS社にも歩いて通うことができた。
開店は五月連休明けだった。
前の店の屋号は「甚平(じんべい)」というのだったが、みすみは引き継がなかった。
開店前日、彼女は引っ越し荷物の中からあの暖簾を取り出してきた。
「まさか、これをもう一度お店に掛けられるなんて思ってもいなかったわ」
暖簾を客席の卓上に広げて、彼女は感慨深げに言ったのだった。
15 人生の快挙とは一体なんだ
退院から一年が過ぎ、夏を迎えた。
新しい「須磨」は繁盛していた。前の店はおでん専門だったそうだが、料理上手のみすみは季節の食材を使った小鉢料理から焼き鳥まで何でもこなしたから客層はぐんと広がったようだ。コの字カウンターにテーブル席が三つという店構えだったが、連日満員の盛況ぶりだった。
開店して一か月でアルバイトの女の子を雇い、二か月目にはもう一人雇った。
私の方は四月からさっそく写真誌のアンカーの仕事を始めていた。
S社の写真誌は金曜日発売で、原稿の締切は毎週火曜日。急な大事件や大事故が発生したときは水曜日の夜までぎりぎり引っ張ることができた。
アンカーというのはアンカーマンの略で、取材記者が集めてきた情報をもとに記事をまとめる役目の人間のことだった。
写真誌の場合は、出来上がった写真に、短いが小技の利いた文章を添えることになる。草分けと言われるS社の写真誌は、写真のみならずそのシニカルな文章が売りだったこともあり、千字足らずの原稿であっても相当の着想と工夫が求められた。
やり始めてみて、自分がこの仕事にものすごく向いているのに気づいた。
写真をかじった経験がこんなところで生きるとは思ってもみなかった。
私の文章は内外で好評で、最初は火曜日の夕方に編集部に顔を出して、隅っこの机で一本原稿を書き、夜の九時過ぎにはS社を出るというあんばいだったのが、梅雨が始まる頃には、毎週二本から三本の原稿を書き、帰宅は深夜におよぶこととなった。
そして、その梅雨が終わる頃には、水曜日にも緊急で呼び出されて原稿をまとめることが再々で、結局、火曜、水曜ともに夕方から深夜まで編集部に詰めるようになった。
アンカー仕事は本数をこなせばまとまった収入になる。まして、週刊誌のアンカーであればそれで食べていくのも不可能ではない。私の場合も、数か月後にはそれなりの月収を確保できるようになっていた。
周囲は会社ばかりで民家は少なかったから、月島時代と違って「須磨」は土日連休だった。その代わり、みすみは昼の定食を始めた。サラリーマンや職工さんがたくさん集まる街とあってランチの需要は大きい。
「儲けよりもお客さんの開拓が一番かな」
そう言っていたが、味がしっかりしみたおでん定食は、ご飯のお代わり自由で六百円という安さも手伝って大人気となった。他にも出汁巻定食、焼き鳥定食、コロッケ定食など、どれも六百円で、「須磨」は昼間も大繁盛だった。
土日は二人で都内をよく歩いた。
月に一度は車を借りて遠出もした。
おいしい店があれば連れ立って食べに行き、息抜きがしたければ近場の温泉に一泊で出かけた。神楽坂に行きつけの店が何軒かできて、土曜日の晩は食事の後によく飲みに行った。
性生活も充実していた。三十半ばとなって、みすみの身体はまさに脂がのりきっていた。折り重なると互いの肌と肌とが自然に吸いついてしまう。私はその身体が愛おしくて仕方がなかった。セックスをしない夜も、背後からしっかりと抱きつき、乳房に触れながら眠りについた。小ぶりの、形のよい乳房が相変わらず大好きだった。
避妊はしていなかったが、みすみは妊娠しなかった。
それはそれでいいと二人とも受け入れ始めていた。
「前世の私はきっとすっごい子沢山で、子育てに追い回される人生だったのよ。だから今回は神様が子育ては免除してあげようって決めたんだと思う」
たまにそんなことを言った。
私の方は、子供が欲しいと思ったことはなかった。育った家庭が家庭だっただけに、家族を信じる気にはどうしてもなれない。信ずるとすれば夫婦の絆だが、夫婦だってたいがいは赤の他人同士に過ぎないと思っていた。
神戸での出来事があって以来、みすみを完全に信ずる気持ちは消えてなくなった。だが、その一方で、みすみを奪われずに済んだというある種の達成感があった。
――この女は俺の女だ。
彼女を見るとしばしばそう思った。
みすみの方にもその裏返しのような感覚があったと思う。
――結局、私はこの人の女なのよ。
いまにして振り返れば、地蔵通りに転居してからの数年間は、私とみすみにとって最も穏やかな日々だった。
アンカーを始めて三年目の二〇〇一年(平成十三年)二月。S社の写真誌が廃刊になった。
ときどきゴーストライターをやったりはしていたものの、ほとんどの稼ぎをアンカー仕事に頼っていたため、一気に収入の道を断たれてしまった。
急転直下の廃刊決定で、編集長が通告されたのは廃刊のわずか二週前という有様だった。
打撃を受けたのは、フリーのカメラマンやフリー記者、私のようなフリーライターだった。社員編集者たちは別の部署に異動するだけだし、給料が大幅に減らされることもない。
カメラマンや記者の中には、会社側に最低限の所得補償を求めようと言い出す者もいた。が、フリーを信条としている人間たちが一つにまとまるはずもなく、一律十万円という慰労金だけで全員が解雇となった。三十三歳と若く、子供もいなければ繁盛店を切り盛りしている妻もいる私などは一番恵まれている方だったが、かつては世間を騒がすスクープ写真を次々とものにし、この仕事だけで二十年以上食ってきたようなベテランカメラマンやフリー記者たちは、突然の成り行きに茫然自失のありさまだった。
最後の号を校了した夜に開かれた打ち上げは惨憺たるもので、責任を感じた編集長が皆の前で土下座するという愁嘆場に発展した。
明け方になると全員が泣いていた。そういう場面に遭遇するのは生まれて初めてだったが、私も気づけば涙を流していた。
仕事を失くしてもみすみは例によって何も言わなかった。
そろそろ小説に専念したら、とも言わないし、そのうちまたいい仕事が見つかるわよとも言わない。日がな店の二階でぶらぶらしていても当たり前の顔をしている。
小説を忘れていたわけではなかった。
アンカーの仕事は週に二日だったので、残りの五日はほとんど毎日、仕事部屋にしている四畳半の洋室で書いていた。だが、これという作品は書けなかった。腕を磨こうと短編を何本か仕上げようとしてみたり、はたまた千枚を超える長編に挑んでみようと試みたり、思いつきであれこれやってみるのだが、ほとんどは挫折した。
火曜、水曜の編集部通いがなくなっても、遮二無二書きたいという欲求は起きない。
ようやく執筆に専念できるという喜びも薄かった。
私は小さな頃から何者かになりたかった。
自分は本当はすごいんだ、絶対にすごいんだと自らに言い聞かせてきた。
それは夢や希望といった明るいものではなく、むしろ身を焦がす切迫感に近いものだった。
何者かにならなくては生きている意味がない。生きる資格がない。
大学三年で写真雑誌の新人賞を受けてから、そうした思いはますます熾烈になった。みすみと出会って以降も、常に追い立てられるような気分から自由になれなかった。
そんな自分自身が変わったのは、やはり結核で入院したあとからだ。
佐伯さんに死なれ、作家デビューの夢が潰え、結核になってしまった。早ければ二か月、遅くても三か月もすれば治癒のめどが立つと言われて入院したが、病状は一進一退で容易には好転しなかった。耐性菌の恐怖におびえ、このまま死んでしまうのではないかと悲観した時期もあった。
かろうじて一命をつないだものの、気づけば、今度は肝腎のみすみを失う寸前に追い込まれていた。
それからは、人生の快挙とは一体何だろうと私はときおり考えるようになった。
私にとっての人生の快挙とは何だったのか?
真っ先に思いつくのは、やはり月島の路地裏でみすみを見つけたことだった。もっと具体的に言えば、彼女に巣食っていた疲労感を察知できたことであり、この人と一緒に生きようと瞬間的に覚ったことであり、写真をすぐにプリントして月島に取って返したことであり、二度目に訪れた際、ずるいと言われてさっさと席を立ったことだった。
なけなしの一万円をカウンターに置いて出ると私はとぼとぼと夜の小道を歩いた。しばらくして後ろからぱたぱたとサンダルの音が聞こえてきた。
その足音を耳にして私は歩みを止め、振り返った。
あの瞬間はまさしく人生の快挙だった。
だが、それよりもさらに価値ある快挙を私はすでに成し遂げていた。
いまになって思うのは、私が自暴自棄を起こしてみすみを責め立て、不実を詰っていれば彼女と一緒に居つづけるなどあり得なかったということだ。
布川父子と共に生きる人生がみすみには確実にあった。
ほんの短い時間だったが、布川という男をそば近くで観察して、彼や彼の娘と共に生きる方がみすみにとって幸福ではないのかと私自身でさえ迷った。
みすみ本人の逡巡はいかばかりだっただろう。
だが、みすみは私との人生を選んだ。
「僕と一緒に東京に帰ろう」
と言ったとき、みすみは「うん」と小さく頷いた。
あの瞬間こそが、私の人生にとっておそらく二つとない快挙だった。
写真誌の廃刊から四か月ほど過ぎた二〇〇一年の六月、週刊誌に異動していた今西さんから連絡が来た。「折り入って相談がある」と言われて、翌日、久しぶりにS社の門をくぐった。
今西さんは副編集長になっていた。用意してきたA4の紙を差し出して、
「新しい企画なんだけど、ぜひ中林さんに参加してほしいんだ」
彼は言った。
16 左の乳房
二〇〇三年(平成十五年)九月一日月曜日。
「闇の決算書」を書き終えたのは朝方だった。
この仕事を始めてすでに二年以上が過ぎていた。いまや名物企画となり、読者の反響も大きい。その分、執筆には全力を傾注しなくてはならない。現実の事件を取り扱っているものの、それはあくまで下敷きであって、中身は純然たるフィクションだった。しかし、フィクションとはいっても、読み始めるや否や「ああ、例の事件か」と読者に思い当たらせねばならず、読了後には、あの事件にはこれほどの深い闇が横たわっていたのかと感じ入ってもらわねばならない。
「現実とも非現実ともつかない、そのかすかなあわいにこのヤミケツの魅力があるんだ」
とは、今年ついに編集長に昇格した今西さんの口癖だった。
その分、モデルとなった事件の関係者から訴訟やクレームなどを招かぬよう細心の注意を払う必要もあった。ヤミケツとはむろん「闇の決算書」の略だ。
今週の素材は、先月初め、宮城県のとある町で十六歳の女子高生の遺体が見つかった事件だった。女子高生は群馬県高崎市にある名門進学校の生徒だった。その彼女がどうして東北の田舎町で変死体として発見されねばならなかったのか。足取りや交友関係が明らかになるにつれてワイドショーで大きく取り上げられ始めた。
二週間後には女子高生の携帯を所持していた二十七歳の無職の男が死体遺棄容疑で逮捕された。例によって流行の出会い系サイトで、何の接点もなかったはずの二人は知り合っていた。
出会い系サイト規制法が六月に成立し九月中旬に施行されるとあって、さほど目新しい事件でもなかったが「闇の決算書」で扱うことになった。
取材班のメンバーが犯行のあった小さな町に入り、容疑者のかつての恋人を見つけ出した。彼女の口から容疑者の異様とも思える性癖が暴露され、その克明な証言が今週の売りだ。
「闇の決算書」は毎号のアンケート調査でも常に上位三位以内をキープしており、いまでは専属の取材記者二人と潤沢な取材費が投入されていた。記者は二人とも写真誌でエース格だったベテランで、私や今西さんとも昵懇の間柄だ。今西さん同様、二人は「須磨」の常連でもあった。
プリントアウトした二十五枚ほどの原稿を読み直し、机の引き出しにしまった。一度仮眠をとってから再度読み返し、そこから五枚分を削る。そうやって原稿を完成させるのが最近の私の流儀だ。
時刻は午前五時を回ったところだった。
一階に下り、瓶ビールとグラス、小鉢を二つ冷蔵庫から取り出して、きれいに磨かれたカウンターの前に座った。
冷えたビールを小さなグラスに注いで一息で飲み干す。
今日の小鉢はさんまの山椒煮と胡瓜と焼き穴子の酢の物だ。
みすみは寝る前に二つか三つ、酒の肴を用意しておいてくれる。
ヤミケツを書き上げたあと、みすみの手作りの酒肴をつまみながらこうしてビールを一本空けるのが毎回一番のたのしみだった。
今西さんから企画を持ち込まれたときは、「三人のライターの一人として参加して欲しい」という話だった。あとの二人はS社の文学新人賞の受賞者で、たまに文芸誌に作品を発表している作家だった。半年経ったところで一人が抜けて二人体制になった。そのあたりから記事の評判が上がってきた。
いまは私と花隈さんという五十がらみの作家さんの二人で一週おきに書いている。
担当編集者の山形さんや専属記者の大場さん、近藤さんたちの話では、花隈さんの回よりも私の回の方が人気が高いらしい。これはまんざらお世辞でもなく、四月に今西さんが編集長になると、
「中林さん一人で毎週書くのはやっぱり無理かなあ」
と打診を受けた。たった一人で二十枚の読み切りを、しかも事実に即した物語構成で毎週面白く仕上げていくのは至難の業なので、その申し出は断るしかなかった。
月に二本から三本のペースだが、写真誌の短文と違って、一本を完成させるのに最低でも一週間はかかった。データ原稿が不満足なときは追加取材を頼んだりもするので、場合によっては十日以上の時日を費やすこともある。
一年中、このヤミケツに私はかかりきりだった。
その分、ギャラは破格で、みすみの稼ぎをあてにしなくとも夫婦二人なら充分やっていけるくらいの収入は得ていた。
三十分ほどかけて残りのビールをゆっくり飲み干し、小鉢を洗い、カウンターを拭き直してから私は二階に上がった。歯を磨き、顔を洗って、トランクスとTシャツ姿になって寝室に行く。布団(ふとん)の上で寝息を立てているみすみの右隣に寝そべり、身体に巻いているタオルケットを引き剝がして身体を密着させた。
いつものように背中越しに薄いパジャマの襟元を割って、みすみの乳房を右手でまさぐる。
乳房はうっすらと汗をかいている。しっとりとした感触が掌に伝わってくる。
身体は熱を帯びているが、乳房はそれほどでもない。むしろひんやりする。
ゆっくりと乳房全体を揉みしだく。乳首をつまむと嫌がるのは分かっているので、乳房だけに集中する。
そうやって右の乳房を念入りに揉み、さらに腕を伸ばして左の乳房に掌をかぶせた瞬間だった。中指の腹にかすかな違和を感じた。
慣れっこのこととてみすみは安らかな寝息を立てている。ぴくりともしない。
私は彼女の身体をもっと引き寄せ、さらに念入りに左の乳房を探った。さきほど違和を感じたあたりに触れると、突起物のようなものが指の腹に当たる。左の乳房の乳暈の下端から一センチほどおりた場所だった。中指と人差し指で小さな円を描くように撫でるとたしかに豆粒大のしこりのようなものがあった。
何だろう?
訝しみながらも、最悪の想像はすでに意識の表面で形になりつつあった。
みすみを起こしてちゃんと調べてみようかと迷った。だが、なにぶん私の方が疲労困憊していた。今回の原稿はいつになく手こずり、この三日間、ろくに眠っていなかった。
引き剝がしたタオルケットをみすみと自分の身体にかけて、とりあえず一眠りする方を選んだ。
昼過ぎに起き、机の引き出しから原稿を抜いて、青のボールペンで不要な箇所を大胆に削ぎ落としていく。今朝方のことはとりあえず頭から追い払って目の前の原稿に集中した。
二時間ほどで推敲が終わると、あらためて画面上で打ち直し、データの入ったフロッピイディスクを持って外に出た。「須磨」はちょうどランチタイムが終わったところで、みすみとバイトの女の子二人が夜の仕込みに精を出していた。
編集部を訪ね、山形さんにフロッピイを渡したあと編集長席に近寄って声をかけた。
「ちょっと相談があるんだけど」
私は空いている椅子を引き寄せて、今西さんの正面に座った。
「どうしたの」
「乳がんの専門医で腕のいい人を紹介してくれないかな」
この一言で今西さんの顔色が変わった。
「みすみさん、乳がんなの?」
信じがたいという表情になっている。それはそうだろう。週に一度か二度は必ず「須磨」に顔を出して、みすみともいまや友達付き合いをしているのだ。
「まだ分からないし、本人には何も言ってないんだけど、今朝、あいつのおっぱいを触ってたら変なしこりがあるんだ。もう三十八だし、その可能性だってかなりあると思ってね」
「まさか」
今西さんは言い、
「だけど、だったら最初から腕の立つ医者に診せる方がいいね」
と付け加えた。私が眠るときにみすみの乳房を触っているというのは、酒席でよく披露している話だった。
「誰か心当たりある?」
「直接の知り合いはいないけど、編集部の連中に声をかければ絶対に見つかるよ」
「じゃあ、頼んでいいかな」
「もちろんだよ。今日中に見つけとくよ」
今西さんは顔を引き締めて頷いた。
その晩、風呂上がりのみすみの乳房を念入りに調べた。
医学事典に「乳がんの自己検診法」が載っていたので、それを応用してみた。
<右手の真ん中三本の指を合わせて、乳頭を中心にしてゆっくりと内側から外側へと時計回りに触って下さい。かたまりや小さなしこりがないかを確認しましょう。>
触ってみると、今朝と同じように、みすみの左の乳房の下部には小さなしこりがはっきりとあった。
「もうすぐ生理だからじゃないかなあ」
そう言いつつ、みすみ自身も不安は拭いきれないようだった。彼女もこんなしこりを見つけたのは初めてだった。
「きみのおっぱいのことは僕の方がずっと詳しいからね。だけど、まだ小さいし、万が一がんだったとしても間違いなく早期発見だよ」
気休めを言うわけにはいかないので、私は「がん」という言葉をそのまま口にした。
「とにかく、専門の病院でちゃんと検査をしてもらおう」
三日後の九月四日、信濃町にある大学病院の乳腺外来で検査を受けた。日本における乳房温存療法の提唱者で、乳腺外科の第一人者と言われる医師を今西さんが紹介してくれた。
当時すでに日本でも普及し始めていたマンモグラフィー、超音波エコー、MRIによる検査が行なわれ、私たちは診察室に呼ばれた。
コンピュータの画面にそれぞれの画像を映し出しながら、医師はていねいに説明してくれた。そして最後に、
「最終的には細胞穿刺をしないと確定できませんが、ほぼ間違いなく乳管がんだと思います。ただ、今日の画像データで見る限り、リンパにも他臓器にも転移している様子はないし、がんそのものも乳管にとどまっています。大きさも小さい。手術で取り除けば、間違いなく完治できる段階だと思いますよ」
と彼は言った。
早期発見とはいえ、がんだったことにショックを受け、私が何も言えないでいると、
「じゃあ、先生。さっさと切っちゃって下さい」
みすみは落ち着き払った声で言った。
17 新装開店
がんの診断から一か月後の十月三日、みすみは、信濃町の病院で乳房温存手術を受けた。
腫瘍は二センチ以下と非常に小さく、手術は成功裏に終わり、乳房の変形も見た目には分からないくらいだった。
回復も順調で、二週間足らずで退院した。その後、術後の放射線治療が行なわれ、週五日間、一か月半にわたって通院した。温存手術と放射線治療は併せて一つの治療法と考えられている。
放射線治療中もみすみは「須磨」を休まなかった。それどころか入院中も店を開けていた。アルバイトの子が連日入ってくれて、昼の定食だけを休んで、夜は通常通りに営業した。
病気のことは誰にも言わなかった。知っているのは今西編集長や記者の大場さん、近藤さん、それに担当編集者の山形さんといったヤミケツの面々くらいだった。須磨の義父母にも連絡はしなかった。
後遺症が出始めたのは、年末あたりからだった。
御用納めの数日前だったと思う。朝、みすみの左腕が腫れ上がっていた。
「ヒックン、ちょっと来てー」
洗面所から聞こえてくる大声で私は目を覚ました。仕事場の簡易ベッドで眠っていた。退院後はたまにそうやって仕事場で仮眠を取るようになっていた。
慌てて行ってみると、みすみが真っ青な顔で洗面台の前に立っていた。「ほら」と左腕を突き出されて私も仰天した。腕の太さが倍くらいになっていたのだ。
痛みも何もなく、みすみも鏡で見るまで気づかなかったという。
「歯ブラシを取って、なにげに見て、卒倒しそうになっちゃった」
術前の説明でも、まれにリンパ浮腫を起こす患者がいるという話は聞いていた。しばらくは警戒していたが、何もないので安心していた。医師によると、半年や一年経ってから突然浮腫に見舞われる人もいるそうだが、注意すべきは手術直後だろうと勝手に決め込んでいた。左腕を動かすリハビリも怠りがちだった。
「毎日、店でお料理作ってるんだから、それが私のリハビリよ」
みすみもすっかり高をくくっていた。
当時の乳がん手術では、たとえ温存手術であっても腋窩リンパ節の廓清は標準的だった。リンパ節を切除してしまうためリンパの流れは阻害され、患者によっては腕が腫れ上がったり、手がグローブのようになったりすることがあった。さらに深刻なのは、リンパの欠如によってもたらされる腕全体の免疫力の低下だった。傷が治りにくくなって、それこそ日焼けや虫刺され程度でも薬が効かない状態になる場合もあるらしかった。
このリンパ節廓清は、再発防止につながらないことが証明され、いまではほとんど行なわれなくなっている。
浮腫はさいわい左腕だけだったので、無理をすれば店に出ることはできた。
年末を乗り切って、正月休みは二人でのんびり過ごした。
年明けからは、時間を見つけてはみすみの腕をマッサージするようになった。指先から心臓に向かって溜まったリンパ液を押し出すようにじっくりと揉んでいく。最初はさほど効き目がなかったが、マッサージ法に改良を加え、次第に効果を発揮するようになった。弾性スリーブというストッキング状のもので腕を圧迫したり、整体院でプロのマッサージを受けたりもした。
浮腫が起きてからは、みすみは着物で店に立つようになった。むくみがひどいときは袖口を絞った割烹着で目立たなくしていた。
初期の乳がんということで再発の危険性は高くなかったし、手術そのものはうまくいった。店を閉じることもなく、毎日ちゃんとカウンターに立っていた。
それでもみすみの体調は手術をする前とではずいぶん違っていた。疲れやすく、夜は入浴をすませるとすぐに寝床に入った。土日の遠出はいつの間にかしなくなった。神楽坂をぶらぶら歩いたり、日本橋のデパートに電車で行ったり、せいぜいそれくらいだった。
神田川沿いの江戸川公園はよく二人で散策した。たまに椿山荘の日本庭園を抜けてフォーシーズンズホテルのラウンジでコーヒーを飲んだ。音羽通りを真っ直ぐ歩いて護国寺まで足を延ばすこともあった。
私は一人で散歩するときも、よく護国寺に詣でた。広い境内は人気が少なく、都会のただなかとは思えないほどいつも静かだった。
世は不景気にあえいでいた。国内消費は冷え切り、市場はデフレの波に溺れていた。為替だけが円高で推移し、それがますます製造業の首を絞めていた。小泉首相の「改革なくして成長なし」のスローガンは経済実態をまったくと言っていいほど反映しておらず、イラクを潰したブッシュ政権は巨額の財政赤字に喘いでいた。バグダッドでは連日のテロによって米軍兵士の命が失われつづけていた。
不況の定着で「須磨」の客足も徐々に減り始めていた。昼の定食は春先にやめてしまった。みすみの体調の問題もあったが、それより何より、六百円の定食ではもはや安さを売りにできなかった。ワンコインランチが当たり前の時代になっていた。
結核で入院した経験から、体調が元に戻るのに最低でも一年はかかるだろうと見ていた。そのあいだは無理をさせないようにしなくてはならない。昼を休むと決めたのも、客足が減って早目に店じまいする日が多くなったのも、みすみの回復にとっては決して悪くはなかった。
「闇の決算書」はますます好評だった。「闇の決算書――男と女」、「闇の決算書――栄光と挫折」、「闇の決算書――金と欲」といった特集ワイドがたびたび組まれ、そのたびに定期連載とは別個の新作を依頼された。
店の収入はかなり減っていたが、私の稼ぎで暮らしはいままで通りに成り立っていた。
夜ごと、みすみを布団の上に寝かせて左腕のマッサージをした。半年もつづけているとそれが習慣になった。術後一年を過ぎた頃から、むくみは滅多に起きなくなった。腕が腫れていないときは全身のマッサージをした。
「こうやって身体を揉んでもらっていると、やっぱり私って姉さん女房なのかなあって思うんだよね」
とみすみはよく言った。
私はずっとその言葉の意味が分からなかった。だいぶ経って理由を訊いてみた。
「だって、本当は旦那さまの身体を揉んであげるのが奥さんの仕事でしょう」
みすみは、そんなことがどうして分からないんだという顔になっていた。
二〇〇五年の節分明け、「須磨」は改装工事を行なった。岩手にいる大家に了解を取りつけて、カウンターを残して、テーブル席を三つから二つに減らし、それぞれを個室に仕立てた。間仕切りの襖を取っ払えば二間の個室はひとつづきになり、宴会にも使える広さになった。
これはもともとは今西さんのアイデアだった。前年の秋に離婚した今西さんは、それまで以上に通い詰めていた。よほど忙しくない限りは、夕食は「須磨」で食べていた。二階で原稿を書いている私とは顔を合わせるでもなく、みすみの手料理を食べてさっさと編集部へ戻って行った。
みすみは今西さんの体調を考えて、日替わりで栄養の偏らない食事を用意していた。
たまに今西さんはみすみのことが好きなのではないのか、と思うことがあった。
その今西さんが、
「ここで宴会ができるんだったら、幾らでも客を紹介できるんだけどねえ。思い切って改装してみたら」
と言い出した。みすみはそのアイデアに飛びついたのだった。
「この不況で、宴会なんてそうそう入らないんじゃないの」
私はやんわりと反対したが、
「どうせこのままだと店はジリ貧だもん。一か八かだよ」
みすみは案外強気だった。それだけ体調が戻ってやる気が出てきたのかもしれないし、若くしてがんになってしまった運気の流れをここで思い切って方向転換させたかったのかもしれない。
新装開店は三月一日だった。
びっくりしたのは、みすみが開店と同時に全席禁煙の大きな看板を店頭に掲げたことだった。寝耳に水で、私は看板を見て呆気にとられた。
「何、これ」
「すごいでしょう。煙草を吸っちゃいけない小料理屋なんて結構めずらしいと思うよ」
みすみはしてやったりの笑みを浮かべた。
とにかく煙草が苦手だから、いつか必ず禁煙の店にしたかったのだという。
その年の六月、書籍の編集部に異動していた山形さんから「闇の決算書」を書籍化したいという話が舞い込んで来た。山形さんは四月に出版部に移ったばかりだったが、さっそく部長の了解を取りつけたのだという。
むろん私は二つ返事で承知した。もう一人の筆者である花隈さんも当然OKだった。私は二点だけ条件をつけた。一つは単なるヤミケツの集成にはせず、中身を厳選した傑作選にすること、もう一つは単行本にするにあたって徹底的に原稿に手を入れさせてもらうということだった。山形さんは了承してくれた。
「著者名のことなんですけど」
最後に彼女は言い出しにくそうに言った。
「中林さんと花隈さんの連名にしようという案と、もう一つ、週刊S『闇の決算書』取材班にしようという案の二案が出ているんです。最終的には部長とその上の局長の判断になるんですけど、万が一、取材班の名前になったとしても出版を認めていただけるでしょうか。もちろん印税はすべて中林さんと花隈さんにお支払いするつもりでいます」
誌面では「中林俊彦」と花隈さんのヤミケツ専用のペンネーム「花輪淳一郎」が、担当した回ごとに作者名として入っていた。それが書籍化されたとたんに取材班の名前になるというのはいささか納得できないものがあった。
「花隈さんは何て言ってるんですか?」
私は訊いた。すると山形さんはさらに言いにくそうな表情になり、
「花隈さんは、どちらかというと取材班の名前にしてほしいみたいなんです。そもそも小説家とヤミケツの筆者とは使い分けているし、本にするのは自分の作品だけにしたいからっておっしゃっていて……」
この山形さんの一言は私の胸に深く突き刺さった。
そんな腰の据え方だから花隈さんのヤミケツはピリッとしないのだと真っ先に思った。だが、その一方で、現実の事件を材料にしてあることないこと面白おかしく肉付けした文章を、曲がりなりにも作家である花隈さんが自分の作品と認めたくない気持ちもよく理解できた。
「僕は別にどっとだっていいよ」
気づいたら半分笑いながら、そう答えていた。
18 ベストセラー
ヤミケツは十一月に出版された。著者名は結局、私と「花輪淳一郎」になった。
書名は『闇の決算書――光よりも美しい物語』。初版八千部だった。
十一月の初め、山形さんから見本ができたと連絡があった。受け取りに行くと言ったのだが、「須磨」まで持って来てくれた。昼どきで客はいなかった。がらんとした店内で、山形さんが紙袋から本を取り出して、私とみすみの両方に手渡してくれた。
中林俊彦という著者名が大きく刷り込まれている。
小説と呼ぶにはおこがましい実録読物なのかもしれない。それでも私は、全身全霊で改稿作業にあたった。内容には自信があった。
私にとって初めての本だった。中林俊彦という名前で最初の応募原稿『快挙』を書いて以来、実に十二年の歳月が流れ去っていた。
ようやく一冊の本を世に問うことができた。
そう思うと心底嬉しかった。
みすみは例によって本を神棚に供え、朝晩掌を合わせて、「どうか売れますように」と祈っていた。
夜になると、化粧を落とした顔で炬燵に足を突っ込み、本を手元に置いて、
「中林俊彦かあ、ねえ、私の旧姓って何だっけ?」
と毎回、言った。
「中林だろ」
私が律儀に答えると、
「そうだよね、中林みすみだよねえ」
独り悦に入っていた。
最初の一か月はあまり売れなかった。
年末くらいから少しずつ動き始めた。
年明け早々に三千部の重版が決まった。担当の山形さんはさすがに喜んでいた。
そのあともじわじわと売れつづけ、版を重ねていった。
五月には累計二万五千部に達し、ここで山形さんが宣伝部に掛け合って、読売の朝刊に半五段の大きな広告を載せた。これで火がついた。以降は一万部単位で増刷がかかっていった。
傑作選とはいえ、収録された二十本のうち十四本は私の作品だった。山形さんからは本数に従った印税率を提示されたが謝絶した。私と花隈さんの取り分が三十五パーセントずつ。残りの三十パーセントを取材記者の大場さんと近藤さんで折半してもらうように頼んだ。
この傑作選は、ヤミケツ・チームの四年にわたる成果にほかならなかった。
六月末にはついに累計五万部を突破した。山形さんは第二弾の出版を打診してきた。
私に異存はなかった。
第二弾『闇の決算書――炎よりも激しい物語』は、二〇〇六年(平成十八年)八月に出版された。
この『炎』の方もよく売れた。つられてさらに『光』の売れ行きが急伸し、九月にはついに『光』が十万部を突破した。
私と花隈さんはS社の社長室に呼ばれ、社長からじきじきに特別革装の『闇の決算書――光よりも美しい物語』を贈呈された。S社では十万部を超えた作品を革装本に仕立て、著者に贈るとともに社長室の書棚に飾るという慣習があった。
私たちの『光』は、S社がこれまで出版してきた数々の名著、ベストセラーと並んで永久に社長室に展示されることになった。
『光』が十万部を突破し、『炎』もそれに迫る勢いとなったので、三十五パーセントとはいえ印税額は一千万円を軽く超えた。
私もみすみも銀行口座に積み上がっていく数字を見てため息をもらした。
「百万部とか売れてる人って、ほんとうにすごいんだろうね。どんな気分なんだろう」
みすみは言った。
『闇の決算書』の第一部、第二部はこの年の終わりには合計二十七万部に達する大ベストセラーとなった。
十二月に入ってすぐ、S社から封書が届いた。来年一月に開かれる新年会への招待状だった。S社は毎年、付き合いのある作家、学者、文化人、出版関係者などを都内のホテルに招いて盛大な新年会を開いていた。そこに呼ばれるのは著名人に限られ、私のような末端で働く書き手にお呼びがかかろうはずもなかった。それが突然の招待だった。招待状には、<当日は混雑が予想されますので、御同伴の方は恐れ入りますがおひとり様までとさせていただきます。>と記されていた。
みすみに見せると、
「私も一緒に行っていいってこと?」
訝しげな声で言う。
結婚して十数年、一度だってそんな晴れがましい席に出たことはなかった。
「そりゃそうだろう」
みすみは、またとないような笑顔になった。
二〇〇七年(平成十九年)一月十二日金曜日。
ホテルオークラの宴会場入り口に私たちはタクシーで乗りつけた。
夫婦でタクシーに乗ったことなど数えるほどしかない。乗るときは大抵、私かみすみが病院に行くときだった。だが、この日は行き帰りともタクシーのつもりだった。
みすみは色々悩んだあげく、ブランド物のパーティードレスを一着買った。バッグや靴、アクセサリーも揃えたからかなりの出費になった。
私もスーツを一着新調した。
開場時間の六時ちょうどに受付に行ったのだが、すでに長蛇の列ができていた。誰もが相応に着飾っている。新年会とあって受付に並ぶS社の女子社員たちは半分くらいが着物姿だった。並んでいる方も、女性は着物姿が目立った。
「やっぱり着物にすればよかったかな。もったいなかったね」
みすみは残念そうな顔をした。最後まで迷っていたのだ。着物であれば何着かいいものを持っていた。
「そんなことないよ。すごくいいよ」
上背のあるみすみはドレスがよく似合っていた。ちらちらと彼女の方へ視線を送る男性がいるのに私は気づいていた。
六時を十分ほど過ぎたところで新年会はスタートした。S社の社長の簡単な挨拶があり、そのあと高名な作家が壇上に登場して乾杯の音頭を取った。
会場はたくさんの人たちであふれていたが、著名人がそこここにいて、
「あの人、作家の××さんだ」
「ねえ、あの人、俳優の○○さんだよね」
二人で口々に言い合った。
東京都知事の石原慎太郎がすぐそばに来たときは、さすがにみすみも顔を上気させて、私の袖を引っ張り、
「なんだかんだ言っても慎太郎ってかっこいいよねえ」
うっとりした声を出した。
料理も豪華で、みすみは三度も寿司の行列に並んだ。
「久兵衛のお寿司なんて何十年ぶりかしら」
と言う。
みすみが銀座時代のことを口にするなんて滅多になかった。
中央テーブルで二人で料理を取っていると後ろから肩を叩かれた。振り返ると今西さんが笑顔で立っていた。
「今西さん」
見知った顔をようやく見つけて、私とみすみは同時に声を上げた。
「たのしんでますか」
「はい。すっごく」
みすみがキラキラした瞳で言う。
ちょうどそこへ、S社の出版部長がやってきた。山形さんの上司で、私も何度か顔を合わせたことがあった。十万部を超えて社長室に招かれた日は、そのあと彼の案内で築地の料亭に出かけた。
「あけましておめでとうございます。決算書はまだまだ好調ですよ。本当にありがとうございます」
みすみを紹介しようと隣を見るといなかった。いつの間にか今西さんと二人でローストビーフの行列に並んでいる。
あきらめて出版部長とあれやこれやの話をした。彼は『闇の決算書』の第三弾の話を蒸し返してくる。年末から山形さんを通じて持ち込まれていた話だったが、私は気乗りがしなかった。これまでの二冊で質の高い原稿はおおかた収録してしまっている。ここで慌てて残り物を搔き集めるのは不本意だった。山形さんも同意見だった。
私は曖昧な返事をして、別の話題に切り替えた。ちらちらとみすみたちの方へ視線をやると、今西さんがみすみをいろんな人に紹介しているようだった。彼の部下たちの顔も見えたし、知らない顔もあった。今西さんのことだ、きっと「須磨」の宣伝をしてくれているのだろう。みすみも生き生きとした表情で初対面の人たちと話している。
出版部長と別れてからも、水割りのグラスを片手に、しばらくそんなみすみを凝視していた。
そこへまたぽんと肩を叩かれた。顔を向けると町沢さんが立っている。
「やあ、こんなところでお目にかかるなんて奇遇ですねえ」
最初から棘のある物言いだった。顔が赤い。かなり酔っているようだ。
「あけましておめでとうございます」
私は型通りの挨拶をした。向こうは「おめでとう」とも言わなかった。
「中林さんさ、あなたも作家を目指してるんだったら、せめて別のペンネームにしなきゃ」
いきなりのように言って、町沢さんは手にしていた水割りを呷った。
彼こそが私の『快挙』をボツにした編集長だった。S社に出入りするようになって、今西さんから一度引き合わされ、それからはたまに社内ですれ違うこともあった。会釈は交しても、ちゃんとした会話などしたことはない。いまは閑職に追いやられているはずだった。
「というと……」
私はわざとらしくその赤ら顔に耳を近づけた。
「だってきみ、あの花隈さんだってああいうものを書くときは違う名前を使ってるんだ。若いきみがそれくらいの矜持も持ち合わせてないんじゃあんまり情けないだろ。きみねえ、闇の決算書なんて、あんな仕事、幾らやっても何の足しにもなりゃしない。筆が荒れるだけなんだよ。まだ若いんだから、少しは、プライドってものを持たなきゃ……」
私は黙って、町沢さんの前から半歩遠ざかった。「あなたは、ヤミケツをちゃんと読んだことあるんですか?」とよほど言おうかと思った。
ちょうどそこへ、山形さんが通りかかって私たちを見つけてくれた。彼女はいつもと同じダークスーツ姿だった。そういう山形さんを見るとほっとした。
「探しましたよ、中林さん。あけましておめでとうございます」
山形さんが言う。
話の腰を折られて、町沢さんは明らかに不快な表情になっていた。
「お二人、お知り合いなんですか」
「きみが彼の担当なの?」
町沢さんが私と山形さんとを見比べるようにした。
「はい」
「この人はねえ、むかしはそこそこ才能のある人だったんだよ」
「は」
山形さんがきょとんとした顔になった。私は黙って下を向いていた。
「だけどねえ、あんなものを書いて、こんなパーティーに我が物顔でのこのこ出てくる、そういう心の弱さがね、この人を駄目にしちゃってんだよ。きみもねえ、あんな仕事なんてやらせちゃ駄目だっての。こういう人にはもっと頑張らせなきゃ。こんなふうに物書きを使い捨てにしちまってたら、うちの会社もますます行き詰ってしまうって話だからねえ」
町沢さんはべらんめえ口調になっている。顔を上げて山形さんを見ると、顔を赤くして町沢さんを睨んでいる。
「中林さん、あっちに行きましょう」
私と町沢さんとのあいだに身体を入れると、「じゃあ、町沢部長、失礼します」と山形さんは私の腕を取って歩き始めた。
壁の隅まで行って立ち止まる。
「中林さん、本当にごめんなさい」
深々と頭を下げてきた。
「町沢部長もずっと干されてて腐ってるんです。あの様子だとアル中かもしれません。本当にごめんなさい」
私はとにかく、みすみがそばにいなくてよかったと思っていた。
「いや、町沢さんの言っていることだって一理も二理もあるよ。気になんてしてないから心配しないでよ」
私は本心でそう思っていた。町沢さんがさきほど言ったことは、私の心にもすでにあったことだった。
「そんなことありません」
不意に山形さんが強い口調になった。私は目が覚めるような感じで彼女を見た。
「私、中林さんがどれだけ誠実に仕事をしているか、よく知っています。今度の本だって、ぶっちゃけた話、中林さんの力でベストセラーになったんです。あんな町沢の言うことなんて全部噓っぱちです。私は中林さんはこれからもっともっとすごい書き手になるって信じています。中林さんの夢はきっとかないます。時間はかかるかもしれないけど、その分、大きな夢がかなうんだと思います」
私は山形さんの言葉を耳に入れながら、かつて似通ったセリフをどこかで聞いたことがあるような気がしていた。
19 償い
その年の三月末、ぶらりと山形さんが訪ねて来た。いつもは「須磨」に顔を出して、たまには私と二人で店の酒を飲むのだが、この日は、夕方、玄関の呼び鈴を押して、直接二階に上がって来た。
居間で差し向かいになると、山形さんは正座して、
「いよいよそのときが来ましたよ、中林さん」
と言った。
何のことか分からず、ぽかんとする。
「実は、まだ内緒なんですが、四月から文芸誌に異動することになったんです。以前から希望は出していたんですけど、今回は今西さんが頑張ってくれたみたいで。ついさっき部長に呼ばれて内示を受けました」
その言葉で言わんとするところは了解できた。彼女は、異動の内示を受けてすぐに飛んで来てくれたのだ。
私は胡坐をほどいて、山形さん同様に正座した。
「僕も今年で四十になります。最後のチャンスだと思って、死ぬ気でやります」
深く頭を下げた。
しばらく話して、下で一緒に飲まないかと私は誘った。
「今日は、お酒を飲むために来たわけじゃないですから」
山形さんはそう言って、帰って行った。
「闇の決算書」は書きつづけていた。
書籍のベストセラー化で、収録作の幾つかが単発のテレビドラマに決まったりと、雑誌の看板企画になっていた。今西さんへの恩義を思えば、小説に専念したいからと降板するわけにはいかなかった。原稿も手を抜くわけにはいかなかった。
私はまず、これまで書いた何本かの小説を引っ張り出して読み直した。
流産したみすみを休ませたくて不眠不休で書いた一番目の『快挙』も、亡くなった佐伯さんと組んで仕上げた二番目の『快挙』も読んだ。いまになってみると佐伯さんがなぜ『快挙』というタイトルにこだわったのか、その理由が何となく理解できた。二作は似ても似つかぬ内容ではあったが、「人生の快挙とは何か?」を探ったという点では一脈通ずるものがあった。
最初の『快挙』では、思わぬ成功を手にしたがゆえに主人公の青年はどん底に突き落とされてしまう。二作目の『快挙』では、震災で何もかもを失ってしまったがゆえに、主人公の居酒屋店主は人間としての喜びに目覚める。
我々の人生にとって快挙とは一体いかなるものなのか?
結核で入院してからこのかた考えつづけてきたつもりだったが、何のことはない、私は若い頃から同じテーマをずっと追いかけていたのだった。
そのことに気づいたとき、本物の『快挙』が書けるかもしれないと思った。
呻吟しながらの苦しい作業の連続だった。
ヤミケツを引き受けながらの執筆が一番の苦労だろうと思っていたが、とんでもない勘違いだった。執筆中の『快挙』を中断し、ヤミケツに専念できる時間だけが唯一の息抜きのように感じられた。
半年をかけて冒頭の百五十枚を書き上げた。何度書き直したか知れなかったが、物語が長大なものになるという確かな感触だけは摑むことができた。
その百五十枚を読んだ山形さんが興奮した声で電話してきた。夜中の三時過ぎだったと思う。
「中林さん、この小説は傑作になりますよ」
と言ってくれた。
それからも執筆は決してスムーズにはいかなかった。三歩進んで二歩戻るといった状態がえんえんとつづいた。
何とか先が見えてきたのは、稿を起こして一年半が過ぎた頃だった。もう二〇〇八年が終わろうとしていた。
山形さんにはあれ以来原稿は見せていなかった。書き上げた枚数だけをときどき報告していた。一年半の時点ですでに七百枚を超えていた。
「この分だと、千枚をゆうに超えそうなんだけど」
「全然かまいません」
山形さんは言った。
二〇〇九年(平成二十一年)に入って、少しずつペースが上がってきた。ようやく物語の終着点を遠く視界にとらえたような気がした。
梅雨の終わりに、みすみが風邪をこじらせた。
一晩、高い熱が出て、熱は下がったものの倦怠感が残って三日ばかり床上げできなかった。五月から猛威をふるっている新型インフルエンザの可能性があった。このインフルエンザは四月にメキシコで確認され、WHOは六月半ばにパンデミック(観戦爆発)を宣言し、警戒水準を最高のフェーズ6に引き上げていた。感染の危険性がある医療機関にはとりあえず駆け込まず、今西さんに都合をつけてもらったタミフルを飲ませた。すると翌朝には熱が下がったのだった。
床を払って「須磨」を再開してからもみすみの体調は優れなかった。
「ちょっと早いけど更年期かもね」
いつの間にか彼女も四十四歳になっていた。
七月の半ば過ぎから咳が始まった。最初は喉の入り口に何かがひっかかったような感じの軽い咳だった。私が結核をやったときのような激しい咳ではなかった。
「梅雨が終わって急に空気が乾燥したからよ」
みすみは気にしていなかった。大の煙草嫌いなのは気管支がもともと弱いせいでもあった。
私の方はいよいよ『快挙』が完成間近になってきていた。七月に入ってからは、ひたすら執筆に没頭した。三十分、一時間と細切れに仮眠を取りながら昼夜なく書きつづけていた。
あれは八月に入ってすぐだった。
仕事部屋の簡易ベッドで目覚めてみると、微かな音が耳に響いてきた。何だろうと思って身体を起こし、耳をすませた。
コホン、コホン、コホン……。
それがみすみの咳だと気がついた瞬間に、すーっと背筋に冷たいものが走った。
時計を見ると、午前七時ちょうどだった。
私はベッドから降り、カーテンを開けた。まぶしいほどの光が一気に部屋を明るくする。首を回して眠気の残滓を振り払った。仕事机のパソコンは点いたままだった。キーを叩くとさきほどまで書いていた原稿がディスプレイに浮かび上がってくる。立ったままの姿勢で終了をクリックし、データを保存した上でパソコンの電源を落とした。
仕事部屋のドアを開けて寝室へと向かう。
みすみは布団の上に座って背中を折り曲げていた。
「ちょっと気になるから、病院に行ってみないか」
さりげなく声をかけた。みすみは私の方を上目づかいに見て、
「うん」
小さく頷いた。
二週間近く咳が止まらないのだ、と言うと「たぶん風邪が残ったんでしょう」と医師は軽く受け流した。
「六年前に乳がんをやっているんですが……」
そう告げると、
「じゃあ、一応レントゲンだけ撮ってみましょうか」
彼は口調を変えた。
結果が出るまで待合室の長椅子に並んで腰掛けていた。
私もみすみも何もしゃべらなかった。みすみはずっと私の手を握っていた。
三十分ほどで診察室に呼ばれた。こういうことはいままでもよくあったと思った。そして、そのたびに何とか切り抜けてきた。
レントゲンに映ったみすみの左肺には小さな白い影があった。
「これが何なのか、まだはっきりとは分かりませんが、一度、大きな病院で詳しい検査を受けられた方がいいと思います」
医師は表情を曇らせてそう言った。
「肺にがんが転移した可能性もあるんでしょうか」
乳がんの肺移転は、それだけでステージⅣ、最末期を意味していた。
「どうでしょうか。そういう可能性もないとは言えませんが、とにかくもう少し詳しく調べた方がいいとしか現段階では言えません」
みすみは隣でじっと小さな白い影を凝視している。一言も発しなかった。
病院を出るとすぐに築地の聖路加国際病院に電話した。みすみの乳がんを手術してくれた医師は三年前に信濃町の病院から聖路加に移っていた。それからは、年に一度の定期検査は聖路加で受けていた。聖路加は二度の流産のときに世話になった病院だった。
三日後の木曜日に検査の予約を入れてもらった。
家に戻って、みすみは着替えるとすぐに店に下りていった。帰り道でも何も話さなかったし、帰宅してからも病気の話は何もしなかった。
私は仕事部屋のパソコンで「乳がんの肺転移」を調べた。おおよそ分かっていたこと以上の情報はなかった。
そんな馬鹿な、と思った。みすみの乳がんは正真正銘の早期発見だった。五年生存率は九十パーセントを超えていた。ましてもう六年も経過しているのだ。いまさら転移なんて普通は考えられなかった。
だが、レントゲンにははっきりと白い影が映っていた。
私はそれ以上、検索するのはやめて、書きかけていた『快挙』の文書を開いた。
すでに原稿枚数は千二百枚を超えていた。あと五十枚足らずで終わるだろう。
もう終着駅はしっかりと見えていた。私は二年半の歳月をかけてようやく目的地にたどり着こうとしていた。
とにかく、書くしかないと思う。自分にやれるのはそれしかない。
その晩、本当に久しぶりに一階の店でみすみと差し向かいで飲んだ。
九時頃に店じまいする音が聞こえ、しばらくすると仕事机の上に置いた携帯が鳴った。
「ちょっと下りてこない」
というみすみの声が聴こえてきた。
私はビールを飲み、みすみは熱燗にした。乳がんのあと、彼女は冷たい酒は飲まなくなっていた。燗酒か焼酎のお湯割りを飲んでいた。
めずらしく夜風が入ってくる晩で、冷房なしでも小窓を開けていれば暑くなかった。
十一時を回った頃合いだったろうか、
「罰が当たったのかな」
みすみがぽつりと言った。
「罰?」
聞き返すと、みすみは艶っぽい笑みを顔に浮かべた。
「そう。俊彦さんにひどいことしたもん」
みすみは十数年ぶりで私を「俊彦さん」と呼んだ。
「ひどいことって?」
私はみすみの目をしっかりと見て言った。
「知ってるでしょ」
艶やかな笑みは絶えなかったが、その目はかすかに潤んでいた。
「何を言ってるか全然わかんないよ」
私は苦笑してみせる。
「どうしたの。酔ったの?」
と言葉をかぶせた。心の中では必死だった。どんなことがあっても私があのことを知っていると覚られてはいけない。
みすみは私の顔をじっと見つめていた。それからふっと目が覚めたように真顔に戻った。
「ほんとだ、何だか酔っ払っちゃった」
と呟いた。
水曜日の午後、私は一人で散歩に出た。
音羽通りをいつものようにのんびりと歩いた。今年は冷夏なのか焼けるような八月の陽射しとは無縁だった。日陰を選んで歩いていればさほど汗をかくこともない。
二十分ほどで護国寺の山門に着いた。
一礼して門をくぐった。
護国寺の境内は広壮と呼ぶに値するほどに広い。もとは将軍綱吉が生母桂昌院のために建立した徳川家ゆかりの寺で、本堂である観音堂は焼失を免れて元禄以来の姿をいまにとどめていた。隣接する墓所には三条、大隈、山県、山田といった明治の顕官たちや大倉喜八郎、池田成彬、団琢磨といった財界の大立者、変わったところでは梶原一騎や大山倍達などの墓が並んでいる。
平日の午後とあって参拝する人の姿はまばらだった。若い人はほとんどいない。年配者ばかりだった。
参道を真っ直ぐに進んで本堂まで来た。階段を上がって外陣の手前から本尊に対して合掌する。本尊は如意輪観世音菩薩だが秘仏なので厨子におさまっている。
みすみが再発していないようにと根詰めて祈った。
合掌をほどいて深々と一礼し、踵を返した。
本堂の上から広い境内を見渡す。夏の光に満ちた境内は白く輝いていた。
するとそのときだった。
横合いからゴーッという唸りを上げて一陣の風が吹きつけてきた。それはまるで古井戸を覗き込んだときのようにひんやりしていた。
私は風の吹いてきた方向へと顔を向けた。むろん、そこには何もあるはずがなかった。
階段の手前で足を止めて天を仰いだ。真っ青な夏空が広がっている。太陽のありかは分からなかった。空全体が青く発光していた。
深呼吸をした。深く、浅く思いが去来する。歯を食いしばって本堂の階段を下りた。
その夜、私は眠れなかった。
聖路加には午前八時半までに行くことになっていた。みすみは十二時前に布団に入っていた。
「一緒に寝ようよ」
という不安げな声を、
「ちょっと仕事をしてからにするよ」
と振り切って仕事部屋に戻った。
仕事は手につかなかった。最終章の書き出しのところで止まっている『快挙』の原稿をディスプレイに表示し、ただその文字の群れを凝視しつづけた。
明け方、私は一度椅子から立ち上がり、カーテンを引いた。
朝の光が射し込んでくる。眠気もなかったし、疲れも感じなかった。
あらためて椅子に座り直し、いままで書いた原稿をスクロールしていく。
この小説はきっとうまくいくだろう、と思った。
だが、もしもみすみのがんが再発し、彼女が死んでしまうようなことが起きたら、一体、この小説はどうなるのだろう?
それでも、世に送り出され、私は作家として世間から認められるのだろうか。
おそらくそうなるだろう。
そのときの私の心に果たして喜びは宿るのだろうか?
みすみを失った悲しみは、別種の喜びによって幾らかは減殺されるのだろうか?
私にはよく分からなかった。
ただ一つ、はっきりと言えることがあった。
もしも、この命を捧げることでみすみが助かるのならば、たったいまこの瞬間に、何のためらいもなく私はこの身を差し出すだろう。
私はこの小説に人生をかけていた。
山形さんに「死ぬ気でやります」と口にした瞬間にそう覚悟を決めたのだった。そして、二年半のあいだ、覚悟が揺らぐことは一度もなかった。死ぬ気で私は書いてきた。
しかし、私は何としても生きねばならなかった。人生をかけるというのは、生きてこそであり、死ぬ気になれるのもまた生きてこそだった。
みすみを失えば、私には生きていくすべがなくなる。死ぬしかない。
死の床についたみすみは、きっと、先夜のように目を潤ませながら詫びるだろう。
「俊彦さん、ごめんなさい」
何度も繰り返して、たくさんの涙をこぼすだろう。
だが、それは間違っている。断じて間違っているのだ。
罰が当たったのはみすみではなく、この私の方だった。みすみの死によって最大の罰を受けるのは私自身だからだ。みすみはたしかに一度は私を欺こうとした。だが、あれは決して過ちではなかった。
しかし、私の裏切りは、誰が何と言おうと大きな過ちだった。
そのことがいまの私には痛いほど分かっている。
それこそ死にもの狂いで私を支えようとしていたみすみから逃げたのは、この私だった。
雪江には、東京に戻ってから一度も会ってはいない。けれど、もう何もかもが遅すぎるのだ。
マウスから手を放し、スクロールをやめた。
もういい、と思った。
この小説はもうここまででいいのだ。
みすみのためにできる最大の償いはそれしかなかった。罪を償うことで罰から逃れられるかどうかは分からない。だが、いまの私には他にできることが何もない。
みすみが生きていてくれるなら、小説なんてどうでもよかった。
20 柔らかな空気
診察室に入ったとたん、柔らかな空気を感じた。
みすみと私は並んで医師の前に座った。いつもの淡々とした表情でパソコンに映った画像を吟味している。
「影なんてないけどねえ」
画面を覗きながら彼は言った。椅子を回してこちらを向く。
「CTもMRもレントゲンも全然問題なし。その先生の読み間違いか、写真の不具合かもしれないなあ。喉がちょっと赤くなってるので軽い咽頭炎でしょう。薬を出すからしばらく飲んで、様子を見て下さい」
私とみすみはこれでもかというくらいに頭を下げて診察室を出た。彼の方がそんな私たちに呆れ顔だった。
病院を出て、新富町方向へと歩いた。
「地下鉄で帰るの?」
みすみが訊いてくる。行きはタクシーだった。
「月島に行こうと思ってるんだけど」
ここからだと佃大橋西の交差点で右折すれば目の前が佃大橋だった。大橋を渡ればもう月島だ。
「月島かあ」
みすみが懐かしそうな声になった。手を繋いで私たちは歩いていた。人通りはまばらだ。通勤時間帯をとうに過ぎているからだろう。
二人で月島に行くのは久しぶりだった。
「あのお店、どうなってるかなあ」
「十五年近く経ってるし、とうに建て替えられてるさ」
「そうかなあ」
「探してみようか」
「うん」
みすみの声は明るかった。私の声も底抜けだろう。
「小説はうまくいってる?」
橋を渡っているときみすみが訊いてきた。
佃島の高層マンション群だけでなく、遠く豊洲にもにょきにょきと高層ビルが建っていた。巨大なクレーンを頭に載せた工事中のビルも何本か見える。日本経済はいまだに失速中だが、東京の再開発は途切れることなくつづいていた。
「それがそうでもないんだ」
私は言った。
「そうなんだ」
意外そうな声が返ってきた。
「しばらく休んで、違うものを書こうかと思ってるんだ」
「へぇー」
みすみは呟いたきり、あとは何も言わなかった。
「またがんばるよ」
と言うと、
「うん」
小さく頷いた。
「とにかく、今日は人生で一番嬉しい日だ。やったぞって気分なんだ」
私は大都会の景色を見つめながら言った。
「そうなの?」
「ああ」
「ふうん」
ちょっぴり納得がいかない声に振り向くと、ぴたりと視線が重なった。じっと私を見ている。川の流れに沿って風が吹き過ぎていった。
「そっか……」
みすみはそう呟くと顔を前に戻し、繋いだ手の力を少しだけ強めた。
©Kazufumi Shiraishi 2024
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