2015年4月16日木曜日

4月16日(木)搬入発売『世俗の価値を超えて―菜根譚』(野口定男著)刊行にあたって

刊行にあたって

渡辺浩章


戦後間もない1949年のことです。故郷・福岡の高校を卒業した私の父は、本人曰(いわ)くラグビー部に入部するために、立教大学に入学しました。勇んで上京したものの合宿所はなく、部屋を借りるお金もなく、「友達の部屋に転がり込んで」寝泊まりする日々を送っていました。ある日のこと、見かねた野口先生が、父に同居を勧めたそうです。野口先生は当時ラグビー部の部長代理であり、学生の指導係だったのです。これで父の人生は一変しました。大学構内にあったという野口家での下宿生活が始まると生活は安定し、徒歩一分の教室に通わぬわけにもいかず?無事に大学を卒業することもできました。
父は幼くして実の父親を亡くしていたので、大学時代は野口先生を親父と慕って過ごしたそうです。野口先生こそが俺の本当の父親なのだ、だから、野口先生はお前たちのおじいちゃんだ、と常々、父は語っていました。
1964年に私は札幌で生まれ、物心ついたときには福島で暮らしていました。そして68年に一家は福島から東京へと引越します。以来、74年に福岡へ転居するまでの6年間、私たち家族は野口先生の御自宅を頻繁に訪問するようになりました。
野口家は埼玉県の新座に居を移していました。志木駅の改札を抜けて陽の沈んでいく方角へバス通りを直進すると、駅から離れるほどに畑や林がひょっこり現われます。あるところで角を曲がって小路に入り、栗林の間を抜けると、木々に囲まれた一軒家に辿り着きます。野口先生の御自宅です。幼かった私は、そのようにして月に数度は野口家を訪問し、先生から「論語」の指導をうけていました。
正直にいえば(先生には申し訳ないのですが)、論語そのものはあまり記憶に残っていません。栗林に続く小路への曲がり角の目印も忘れてしまいました。そもそもバス通りを歩いていたのか、あるいはバスに乗っていたのか……、どちらでもあったのかもしれません。でも、東武線の電車の床が木の板であったことや、木の床の放つ匂いは覚えています。帰り道、自宅近くの中華屋で食べたしょうゆラーメンの味を、ナルトの渦模様を覚えています。
論語教室に通っていたのは私のほかに二人の兄と母との計4人でした。4人揃っての通学はなぜか平日の午後であり、授業が終わればすでに夕方なのにすぐには帰らず、応接間に居残って菓子や果物を御馳走になったこともしょっちゅうでした。それでも最後はしょうゆラーメン。いま思うと、しょうゆラーメンを誰よりも楽しみにしていたのは、母だったような気がします。
 野口先生の論語教室でもっとも強く印象に残っているのは、先生から手渡される手書きのテキストです。論語の文章を音読するために用意されたテキストには、万年筆で書かれた沢山の文字が原稿用紙のマス目に並んでいました。私のテキストは、すべてが平仮名でした。二人の兄のテキストは、漢字と仮名の使用加減がそれぞれに異なっていました。つまり、三兄弟それぞれの学力に応じて書き分けてくれていたのです。
また、論語の講義の途中で先生は、子どもにも分かるようにやさしく、たとえ話をされていました。幼い私に論語は難解でしたから、たとえ話の方に興味をもって耳を傾けました。本書においても、「菜根譚」の訳文よりも先生のたとえ話の方になんともいえない優しさと魅力を感じてしまいます。本書の初刊行が73年で、論語教室に通っていた時期とぴたりと重なりますから、本書を読み返すたびに、当時の先生の話がそのまま活字になっているかのような錯覚をおぼえます。
野口先生は、私たち三兄弟の名付け親でもあります。長男が「泰成」、次男が「共久」、三男の私が「浩章」です。私の名前「浩章」は、「広く世の中を見渡して、本当のことを見つけ出して、それを文章にしてみんなに伝える」という意味だとあるとき先生から教わりました。「だから浩章は、新聞記者になりなさい」とも言われました。私は出版社の道を選んでしまい、新聞記者にはなれませんでしたが……。
私にとって、本書は「座右の書」です。大手出版社を辞めて小さな出版社を起こした今では、その航海に欠かせない「羅針盤」となりました。鉄筆文庫として復刻した本書が、一人でも多くの方にとっての「座右の書」となり「羅針盤」となりますように願ってやみません。
本作品は1973年4月に新人物往来社から刊行された『世俗の価値を超えて―菜根譚』を文庫化したものです。文庫化にあたり誤字・脱字やルビの加筆修正等を行いました。

2015年3月